映画・演劇・テレビ  (公開順)

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(Back to the Future)

3部作をまとめたトリロジーDVDを購入。
続けて見たらおもしろいことこの上ない。
ロードショウのときには一年ごととかでぶつ切りで見たし、特に2は「ここで終わっちゃうのー?!」という思いをした覚えがありますが、2,3というのは続編なのではなくて、1, 2, 3でひとつのお話、ということを痛感。

バック・トゥ・ザ・フューチャー トリロジー・ボックスセット

2004.01.21 - 01:17 PM ||コメント (0)

『サンセット大通り』 (Sunset Blvd.)

ビリー・ワイルダー監督。
すごかった。こんな映画をよくハリウッドが撮らせたなあ。
ビリー・ワイルダーはコメディの印象が強かったが、これはなんというか、精神と感覚の両方で、背筋を伸ばさざるをえないような、そんな感じの映画。
テーマは重く暗いのに、この気高さ、品のよさはすばらしい。脚本に隙がなく、登場人物のそれぞれが抱える生き方、運命が緊張感をもって表現される。
グロリア・スワンソンとエリッヒ・フォン・シュトロハイムの二人の鬼気迫る雰囲気。ことにラストでふたりがそれぞれを演じるシーンは息を飲みます。

IMDb: http://www.imdb.com/title/tt0043014/

amazon DVD
サンセット大通り SPECIAL COLLECTOR'S EDITION
サンセット大通り

2004.01.25 - 01:40 PM ||コメント (0)

『理髪店主のかなしみ』

この間ビデオ屋に行って邦画の棚を見ていたら『理髪店主のかなしみ』というタイトルがあって仰天した。
こ、これってあの、ひさうちみちおの?!
と箱を確かめたらやはりそうらしい。
あのカルトな超フェチコミックをどうやって映画に? いくらなんでも漫画のストーリーをそのまま映画にはできまい。
田口トモロヲが主役であるところから、ちょっと路線が違いそうな予感はしつつ、しかしいったいどのように料理して映画にするのかめちゃくちゃ興味がわいて、つい借りてしまいました。

で、観たところ……たしかに原作とはいろいろ違うのですが、根底に流れるフェチの精神はきちんと踏まえた佳作でありました。この監督(広木陽一)、自分もきっとフェチに違いない。
と調べてみるともともとはいわゆるピンク映画の監督だった人のようですが、未見でぜひ観てみたい!と思わせる映画ばかり。こりゃ探さなきゃ。

以下、観たいリスト。()内は自分の注目点。
『東京ゴミ女』(柴咲コウ、田口トモロヲ出演)、『美脚迷路』(ひふみかおり、鳥肌実出演)、『君といつまでも』(山本直樹原作、田口トモロヲ出演)、『不貞の季節』(団鬼六原作、大杉漣出演)

コミックを原作とした安易なドラマ化、映画化が多いが、こういうのは大歓迎。どんどんDVDにしていただきたい。


コミック →『理髪店主のかなしみ
ISBN:4872570588

DVD →『理髪店主のかなしみ

2004.02.13 - 03:16 PM ||コメント (0)

Lost In Translation ロスト・イン・トランスレーション

パークハイアットで仕事の打ち合わせを終えて、時間があったので渋谷にまわり、見たいと思っていたソフィア・コッポラの「Lost In Translation」を見た。

つい30分前までぼくがいたパークハイアットのホテルが、映画の舞台だった。

母国を離れて、何をしていいのか何をしているのかわからなくて、それぞれ結婚しているのにひとりでいる、ふたりのものがたり。

さびしい異国人が異文化の中に放り出された感は、東京にいるぼくが、先ほどまでいた新宿や、今まさにそこにいる渋谷を映した映像から得ることは、ちょっぴりむずかしい。
というか、米国人と、同じように得ることはむずかしい、という、それはどの映画を見ても同じであろう当たり前のことに気づきながら、でもそれを超えて、さみしさとあたたかさを感じさせてくれるいい映画でした。

お兄さんであるロマン・コッポラ監督・脚本の『CQ』もぼくはかなり気に入っているんですが、いやあ、コッポラファミリー、いいなあ。

Lost in Translation
http://www.LIT-movie.com/

2004.05.12 - 01:41 AM ||コメント (2)

『A2』にこの社会全体の恐ろしさを見る

ずっと見たいと思いながら、レンタルショップに行くといつも借りられていて見ることができなかった『A』および『A2』をようやく見ることができました。
森達也監督の、オウム真理教(宗教団体アーレフ)の内部に入り込んで撮影された映像をメインとしたドキュメンタリー映画です。
『A』は、若き広報部長を追い、『A2』は、各地での様々な住民運動とそれに対する団体側の対応を中心に追ったドキュメンタリー。いずれも2時間を超える作品で、どちらか一方を見るとしたら『A2』がよいでしょう。『A』を見ていなくても問題なく見ることができます。現在の日本の社会が抱えるようになっている様々な問題がより深く浮き彫りになっています。

ぼくは特に『A2』を見て、最近抱き続けている不安がますます増大しました。

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2004.06.16 - 08:00 PM ||コメント (0)

『恋の門』

羽生生純+松尾スズキという取り合わせに、カナリ期待していたのですが、予想以上の出来、という言葉を使うのは失礼ではないかと思うほど。松尾スズキ、すばらしい。
脚本、カット割り、音や音楽の使い方、どれも、うまいなあ、と声をもらしそうになりながら、見入っていました。

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2004.10.13 - 08:46 PM ||コメント (0)

THUNDERBIRDS ARE GO!

最近ときどきNHKで夜中に『サンダーバード』をやっていて、つい見入ってしまってたいへんな寝不足になったりする。
それにしても、制作は1965年。日本ではNHKが66年に放映したみたいだけど、ぼくが見たのはオープニングに日本語の主題歌が入った再放送版。
いまだに、オープニングのカウントダウンと「THUNDERBIRDS ARE GO!」のかけ声とともに鳴り響くテーマソングを聴いただけでわくわくする。

最初に見てから、再放送はたぶん見てないとおもうんだけど、とするともう大昔なのに、「ああこれ見た!」とはっきり覚えているシーンがいくつもあり、そのときのドキドキ感さえ思い出すのにはびっくりするくらい。
設定としては単純な「子どもだまし」的なものも多いんだけど、そんなものは気にならない。この年になって見ていても興奮を覚える映像とメカ。すげえなあ、これ作ったの40年近く前なんだよなあ。

しかし……実写版映画が始まる前にこの再放送やってなくてよかったよ。もりあがりまくったあげくに、どん底につきおとされたかも。それでなくても相当期待して見に行ったのに……。

映画版がダメな点は多々あるけれど、一言で言えば、サンダーバードへの愛情がない。「お前ほんとにサンダーバード見てたのかよ?」って制作者にいいたくなる。テレビを夢中で見ていたヤツがこんな作り方するはずがない。

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2004.12.05 - 01:55 AM ||コメント (0)

『新選組!』 みな、ありがとう!

これは予定稿です。
最終回が終わったタイミングで公開したいと思いながらも、最終回直後は、たぶん、ぼろぼろ泣きながら、腑抜けているだろうこと間違いなく、落ち着いた文章を書く自信はとてもないので、あらかじめ書いています。

学生時代、親と住んでいたころは、家族につられて大河ドラマを毎週見ていましたけれど、ここ10年くらいはまったく見ていませんでした。
『猫』からの三谷幸喜ファンではありますけれど、彼のドラマを全部欠かさず見ているかというとそういうわけでもなく、今回も「どうかなあ、おもしろいかなあ」ぐらいで見始めたのです。
新選組そのものについてもこれまで興味を持ったことがなかったので、組に関する史実の知識もほぼまっさらな状態でした。

まさかこれほど楽しみにすることになるとは……

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2004.12.12 - 09:00 PM ||コメント (0)

『新選組!』 その後。作家と俳優の想像力。

新選組のその後、については今日たまたまNHKの『そのとき歴史が動いた』で見ていたのですが、その「その後」ではなくて、ぼく自身が『新選組!』を見終わったその後、のこと。
最終回の緊張と感情の起伏は、思っていたほどではなかったので、少し落ち着いていろいろ考えています。

と言いながらも、最終回のビデオは繰り返して見て、二度目は、一度目以上に原田佐之助と捨助に泣かされました。このふたりに泣かされる日がくるなんてね。
また、ストーリーを追わずに映像を見ることができる余裕ができるので、土方の美しい涙、近藤勇の最期の静かな微笑みもじっくり見ることができ、これまた、一度目以上に泣かされました。

いろんな評価がありますが、ぼくは慎吾ちゃんの演技はほんとうにすごいと思っています。

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2004.12.16 - 01:42 AM ||コメント (0)

役と役者と、かつて生きた人と

月曜日のNHKの昼間の番組「スタジオパークからこんにちは」に、新選組の井上源三郎役、小林隆さんが出演してたので、録画しておいたのですが、今日それを見ました。

役者の印象が、いい役や特徴的な役柄に強く影響を受けるということはよくあります。
ただそういうのと違って、役というよりも、役であった人物の人生が、役者の人生に重なるような、これまでの役と役者の関係でみてきたようなものとはちょっと違うものが、『新選組!』の役者さんたちの中には生まれたような気がします。

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2004.12.24 - 02:38 AM ||コメント (0)

ふ、副長!

ななんということ。
もう5月には発表になっていたんじゃないですか。全然知らなかった……。
望むべくもない……と思いながらも、昨年の最終回の日のエントリーに書いていた「できたら、その後の土方を描いたドラマを、見てみたいものです」が、まさかまさか、実現することになっていたとは!
副長の厳しい表情、総司の幼い顔、山南さんの笑顔……たった数分のテレマップ予告編を見ただけで目頭が熱くなる。
1月3日が待ちきれない。

新選組!! 土方歳三 最期の一日 [nhk.or.jp] 」 2006年1月3日 21時〜

2005.11.02 - 12:12 AM ||コメント (0)

「白い一日」の青さ

ぼくのiTunesの再生回数トップは、「ハナミズキ」です。昨年後半は、ずっとこの曲を聴いていたような気がします。
抑えた熱い思いを抱いたり、その思いを反芻することで生きるあたたかさを得たり……「もらい泣き」以降、そのような気持ちの出し入れを詩と歌声によって支援してくれる一青窈さんという存在に、ぼくはありがたさとうれしさをいつも感じています。

そういえば、30年前、同じような……でももっとずっと青臭い……切なさをこころに抱いたときに聞き、また歌っていたのが小椋佳さんの曲、ことに、「白い一日」でした。

その曲を、今やすっかり禿げあがってしまった小椋さんが、しかしあのころとまったく変わらない落ち着きのある美しい声で歌ってくれ……そして一青さんにバトンタッチ。次の瞬間には、彼女以外のだれのものでもない「白い一日」になっていて、それはそれは見事でした。

小椋さんはぼくよりおよそ15上、一青さんはぼくより15下。
30違いの真ん中にいるぼくが、あの曲を、30年の時を経て、おふたりの声で聴くことができるしあわせ。
ぼくの大好きなおふたりが、初めて会ったのにすでにお互いに深く認めあっていたというよろこび。
小椋桂と一青窈のツーショット。小椋桂と一青窈のデュエット。
心が震えました。


思いを、すなおに見つめること。
ことばを、誠実に希求すること。

そうした気持ちや姿勢と、その結果としての歌声は、たしかに共通するものかもしれません。
そしてたしかに、そういうところこそが、ぼくをとらえて離さないところなのです。

NHK『音楽・夢くらぶ』11月3日 小椋佳&一青窈[nhk.or.jp]

2005.11.04 - 12:53 AM ||コメント (0)

「ホテル・ルワンダ」に恥じる

一時は日本での公開が危ぶまれていたこの映画、mixi有志をはじめとするひとたちの努力が実り、ようやく公開にこぎつけ、ありがたいことに、見ることができました。
それにしても『オーマイニュースの挑戦』を読んでも強く感じたことですが、なんと自分が無知であることか。

国内のテレビや新聞の報道が、「公正」とか「不偏不党」といった言葉をお題目にしながら、いかに偏っているか、特に国外の様々な事柄の扱いについて、著しい偏りがあること、そしていつのまにかそうした偏りに気づかなくなっていることに、あらためて気づかされます。

映画での一シーン。内紛(といっても西欧諸国の差し金による)で大虐殺がはじまろうとしている中、白人だけが国外脱出する機会を得たとき、ホテルからバスに乗ろうとするジャーナリストにホテルマンの黒人が傘を差し出します。差し出されたジャーナリストは、苦しげに、「傘なんか差さないでくれ、恥ずかしい」と言いながら足早にバスに向かいます。ただ肌の色が違うだけで自分は生を得られ、死に直面しているひとびとに何もすることができない。力と富を持つ国の国民でありながら、その力も富も、虐殺を防ぐことに使うことなく見捨てていく。
そうした自分自身や、自分が属する国を「恥ずかしい」とする感性。
日本には恥の文化があるはずだけれど、こうした感性は、今ぼくたちのそばには無くなってしまった気がします。

少なくとも、この世界には「知らなければならないこと」があり、そのことを知らないでいる、ということを恥じる気持ちを大切にしたい。
知らないことは恥であり、罪です。
知ること、そして知ったことを伝えることで、できることはまだまだたくさんあるはず。

2006.03.14 - 12:38 AM ||コメント (0)|トラックバック (1)

『東京原子核クラブ』を21世紀の東京で観る

脚本家も、出演俳優も、そして劇場もどれも初見だったのですが、取っているメルマガの号外での紹介 [www.shinobu-review.jp] に惹かれて、六本木の俳優座に見にいってきました。

人間の様々な面(明るい面も、暗い面も)に対する暖かなまなざしが豊かにあふれる脚本を、俳優が力量を十分に発揮して昇華し、個々の人物像——人柄、思想、人生——がそれぞれキラキラと輝くすてきな舞台でした。
社会と、その中で息づく市民の思いと営みのかかわり。科学と技術への心躍る探求心と、それがもたらす挫折や悲劇。そうした食材を、「人として、人と生きる温かさ」というスープで煮込んで作られた秀逸な料理。

演劇をとおして、生きるか死ぬかもわからなかったあの時代の日本の人々に、なんだかギスギスして希望が見えないこの時代のぼくたちへのメッセージとして「やっぱり人はこんなふうに生きていくべきなんじゃないか?」と伝えられたような。
そしてその「こんなふう」というのは一辺倒なものではなく、人それぞれのさまざまな「ふう」でありながら、どこか背筋ののびた姿勢と、それでいてやわらかな他人との交わり、という共通の「ふう」なのです。

物理学者、という存在をひとつの軸に据えた点も、ぼくにはとても興味深いものでした。
世界の根本的な秘密を解き明かす行為が、人間の社会や存在そのものに密接に結びつくがゆえに、高度な論理性と豊かな想像力を必要とする物理学という学問。
ぼくが心から尊敬する人の中にも、すぐれた物理学者が幾人もいます。
真実への果て無き探求心と、社会や政治の根本を支えるということへの誇りを、光のあたった突出した学者だけでなく、立場や能力の異なる多くの物理学者や学徒が、自分なりの抱き方で抱いているのだということ。それが複数の役者によって個性豊かに描かれ、語られることによって、科学や、仕事や、社会とのかかわりについて様々なことを感じ、考えさせられます。

笑い、泣いた3時間が終わったあとは、元気をおみやげにもらいました。


役者はどなたもみなすてきでしたが、ことに小飯塚貴世江さんの演技が心に残りました。女であるがゆえに生物学者になることを諦めなければならず下宿屋で働いている娘、という設定を実に豊かに表現されていました。声に力のある人だな、と思ったのですが、声優もしているのですね。

脚本のマキノノゾミさんという方は、ぼくと世代が変わらないのに、第二次世界大戦の前後の東京の雰囲気、当時の社会と人との関わり方、語り口調などが実にそれらしいとぼくは感じたのですが、それこそあの時代に学生だった方々がどう感じるか聞いてみたいものです。
この方は2002年のNHKの連続テレビ小説「まんてん」の脚本を書かれているんですね。テレビ小説を見ることはほとんどないのでまったく知りませんでしたが、「鹿児島県・屋久島で生まれ、いつか宇宙に行きたいという夢を持つヒロイン・日高満天が国際宇宙ステーションに搭乗するまでを描いた物語」だったそうで、この設定の内容にも、また設定に対してたぶん脚本家が抱いているであろう思いにも、惹かれます。DVDで総集編でも見てみるかな。

2006.07.12 - 01:03 PM ||コメント (0)

『蟻の兵隊』

誰しも、自分の弱さを、自分で正しく見つめることは、なかなか簡単にできるものではない。

だからこそ、ぼくは、奥村さんの勇気に、心をうたれる。
過去だけでなく、今も自分の中に巣食う邪な感情にも、きちんと向かい合うことのできる強さに感服する。

自らに潜む悪魔をひきずりだしてこそ、その悪魔を棲まわせたものへの怒りが正当で強力なものになる。
だがそのひきずりだすという行為は、自分のこころの中を含む恐ろしい事実にまっすぐに目を向ける勇気と、見えてしまう恐ろしさへの心構え、対応する強いこころがなくてはできない。
なんという自省。


戦後に生まれたぼくらには、戦争そのものに対する責任はない。

だが、ぼくらが生きてきて、今も生きている時代への責任は、厳然として存在する。
今このときに、過去の事実を見極めようとしていないことへの責任は、今ここにいるぼくたちにある。
今ここにある無責任や、今ここにある言葉の暴力や、それに基づいた行動を許している責任は、ぼくたちにある。

奥村さんが示してくれた、自らを省みてその先にこそ本当の敵を見いだす勇気を、ぼくの中にも持ちたいと思うのだ。


そしてもう一人。
自らを激しく傷つけた許しがたい相手への真っ当な戦いを挑みつづけながら、その者たちの思いさえも受け止める豊かなこころを持つ、そのひとの大きさ。であるがゆえに激しく伝わってくる過去と、その過去を捨て去れない時間。長い長い苦しみ。
ぼくらは彼女に過去の許しを乞う立場ではない。
そうではなく、過去のできごとを、過去のできことにできないようにしている、今ここにあるそのことを変えなければならない——できないことに許しを請うのでなく——立場なのだ。


殺したり、切り刻んだり、犯したり、そうした行為に立ち向かえるのは、殺し返したり、切り刻み返したり、犯し返したり、することではない。
そうした行為をあらゆるところで繰り返してきたことへの許しは、行為の事実をまず見つめて、自らの中に鬼がいるということを知り、認めることからしか得られない。
そして、その鬼を封印するということからしか、始められない。


おふたりの、60年以上にわたる、想像もできない苦しみと、克服への努力、そうさせたものへの永遠の怒り。

決して望んだわけではない、しかし人生をかけた行動から、ぼくは力をもらいたい。
自己満史観に陥るような、恥知らずの、美しくない国にしたくはないがゆえに。

『蟻の兵隊』公式サイト

2006.09.25 - 03:23 PM ||コメント (1)

旗をめぐる悲劇。『父親たちの星条旗』

——あいつらにとって一番大切なものはなんですか。
——あれだ。フラッグだ。スターズ・アンド・ストライプス。

Stars and Stripes。星条旗。

6人の兵士が、星条旗を必死に立てようとしている写真は、その背景や意味をほとんど何も知らなかったぼくでさえ、これまでに幾度も目にしたことのある有名なものでした。
米軍6,821名、日本軍20,129名が戦死した太平洋戦争の激戦地、硫黄島。
そこに立てられた旗をめぐる物語は、壮絶で悲惨な戦闘シーンをフラッシュバックさせながら、旗というものが、実体ではなく仮想のなにものかに力を与え、ひとびとを導くのに強大な力を発揮することを、教えてくれます。

どの国でも同じように、戦争で死んだ者たちを顕彰します。
後に続く者が心おきなく死ぬことができるように。
そのことも、この映画であらためて目の当たりにした、しかしよく考えればあたりまえの、事実でした。
敵も味方も、死んだ者がえらいのであれば、ほんとうにえらい者は誰なのでしょうか。

すこしでも俯瞰して見れば、命を投げ出さなければならないことの無意味さが見えてくるはずですが、俯瞰することを許さない「勢い」が、ごく小さな島のうえでの2万7000もの死を生み出しました。
その無意味さは、米軍、日本軍、それぞれが内在しているものであり、つまりは、戦争そのものの無意味さです。

無意味であるがこそ、そこに意味を見いだす……否、作り出す必要があり、そのための「旗」なのでしょう。


このエントリー冒頭に引用した会話は、大河ドラマ『新選組!』の初回にでてきたものです。
浦賀沖に停泊している黒船を見た島崎勝太、のちの近藤勇が尋ねると、佐久間象山がおもむろに黒船を指さしながら答えるのです。

新選組は、「誠」の旗をそのよりどころとしていました。「誠」の文字は、彼らの出自である道場・試衛館の「試」にも似て、内にも外にも、その存在を鼓舞する役目を負っていました。
であるがゆえに、ドラマの続編の『新選組!!』に使われた、ボロボロになった「誠」の旗は、彼らの悲劇を象徴していて見事でした。

新選組をはじめとする尊皇攘夷派はまた、敵対する薩長に「錦の御旗」を掲げられてしまったことで、自分らが賊軍になってしまったことに驚異と失意を抱いたのでした。


ペリーの黒船に掲げられていた星条旗の実物を、米国はポツダム宣言の際にわざわざ取り寄せたそうです。日本に対し、二度目の負けを思い知らせるための、装置として。


旗というただの布きれがわたしたちに与えてきた物語。
その多くは、よりどころとしての絶大な力に頼る人へのシンパシーと、であるがゆえにこそ無力感さえ抱かせるほどの馬鹿馬鹿しさとが、ないまぜになって、ぼくになんともやるせのない思い、つらい気持ちを抱かせます。


この映画で学んだこと。
旗は、ただの布きれだけれど、ただの布きれではない。そのことにもっと敏感になれ。
同じ泣くなら、泣かせようと作られたドラマでなく、こうした映画で泣きたい。だからこんな映画を見にいくときにはちゃんとハンカチをもっていくこと。

2006.12.04 - 07:40 AM ||コメント (0)|トラックバック (1)

『硫黄島からの手紙』

日本の士官にも、このように人間味にあふれ、論理的な思考でものごとをすすめてゆく人がいたのだということにどこか安堵する自分がいます。
ですが、それでもなお、彼らのような人間でさえ、理不尽で無意味な結末に自ら突き進んでいかなければならなかったのはなぜなのか、深く考えさせられます。

それにしても、あの爆撃の嵐。見ていて思わず身体が縮こまり、知らぬうちに歯をくいしばって恐怖に耐えている自分に気づいたほどの、圧倒。
実際に現地にいた兵士たちの思いや感情の何十分の一かでしょうが、それでもそれを映像で疑似体験させてもらいながら、同時期にあのB29で同様な思いをしていたであろう当時の東京をはじめとする空襲を受けたひとびと、そして今なおあの米軍の攻撃を受けている中東のひとびとが抱いているだろう恐怖を想像するに、余りあります。

あるいは、あの海を埋め尽くす大艦隊。
『父親たちの星条旗』での見たその映像では、あんなものを見せられたならば、自分なら恐怖をとおりこして諦めと無力感に襲われて、腰砕けになるのではないか、と感じていました。
しかし『硫黄島からの手紙』での二宮和也演じる若い兵士の腰は砕けず、その場にいる者のリアルな「囚われた現実」を表現していてうならされました。国家や戦争という装置によって囚われてしまうあのようなもろさ(あるいは馬鹿馬鹿しい強さ)は、たしかに人が——つまりはぼくもまた——もっているものだろうという説得力を発揮して迫りきて、砲弾や銃弾の嵐とはまた異なる、内からの恐怖を抱かせられます。

『男たちの星条旗』同様、すばらしい映画でした。どちらか一方だけでもおすすめですが、しかし一方を見れば、きっともう一方もどうしても見たくなるでしょう。

2006.12.12 - 08:05 AM ||トラックバック (7)

『パプリカ』(映画版)

小説を読み終わってから、ああこれはアニメーターにはたまらない素材の宝庫だ、と思いました。
夢にあらわれる様々なものごとが、アニメーションでしか表現できないような魅惑的な形で登場するだろうと。

そして……予想以上にすばらしい動きとアイディアの数々に驚嘆しながら、ぼくは存分に楽しませてもらいました。
小説をベースに、アニメーションという舞台へ、内容や演出を変えた料理のしかたも見事です。

なによりもパプリカが実にキュート。
千葉敦子とのキャラクターの違いの創出が、この物語の映像化のひとつのカギでしょうが、千葉敦子からパプリカへの変わり身が、見た目だけでなく表情、手足の動き、声によって、「どうだ」とばかりに提示されます。パプリカの様々なコスプレも、その姿ならではの戦いぶりや動きとあいまって魅力的。

声優陣はベテラン揃い。江守徹だけはどうしても俳優としての姿が連想されてしまったのですが、彼以外は、テレビでよく見る声優であっても声だけになるとキャラクターそのものになりきるのはやはりさすが。主人公の声の使い分けもすばらしい。

そして音楽がいいですね。
精神が夢を通して犯される、という、見方によっては重い主題が、明るい色彩にかぶさるこの音楽によってエンターテイメントとしてのワクワク感に変換されます。

作る側もきっととても楽しんで作ったと思うのですが、見る側もほんとうに楽しい。
そういう映画でした。
大画面で見てよかった。



ところで、アニメーション作家にとっては、パレードというものは、何か惹かれるものがあるのでしょうか。
『ロボットカーニバル』にも『イノセンス』にもそのような光景があったような気がしますが、どうもぼくは、カーニバルが移動していくシーンって、いつもちょっと退屈しながら見ています。
作る側にとっては、全体が大きく動きながら、細部もすべて別個に動いているものを作り込むところに醍醐味があるのかもしれません。漫画では、手塚治虫の初期の作品によくでてきたようなモブシーンは、見る側も細かいところに渡ってじっくり見て楽しむということができるのですが、この点はいかんせん映画館での鑑賞では画面を止めたり繰り返し見ることができないので残念。


千葉敦子は、映画を見ているときには「あんまり美人って感じじゃないなあ」という印象だったのですが、あとでパンフレットやWebサイトでよく絵を見てみると、けっこうな美人にちゃんと描かれています。
実際の美人って、顔かたちだけでなく、肌のキメとか光の反射とかそうしたものの要素が大きいんでしょうね。アニメーションにとっては、かわいいのをかわいらしく作るのに比べ、美人をほんとうに美しく見えるように作るのは、とてもむずかしいことなのかもしれません。それともやっぱりわざとなのかな。


音楽は、アカデミー賞にノミネート!したそうです。
しかもなんとそれを、無料配信中です。


appleのQuickTimeサイトで予告編が見れます。

▼『パプリカ』
オフィシャルサイト

▼『パプリカ』ブログパーツ。タグクラウドになってるようです。

2006.12.14 - 07:56 AM ||コメント (0)

映画『夕凪の街 桜の国』

オリジナルを忠実にふまえながら、映画手法によって原作への尊敬が翻訳され、同じように原作を尊敬するものにとって、心地よい映像となっていました。
であるがゆえに、こうの史代さんの卓越した構成力と、繊細に綴られた日本語が、いかに優れたものであるかを再確認できる映画でした。実写の映像を見ながらも、あの素朴な絵柄が脳裏に浮かびます。
コミックもずいぶん売れ、読まれているとは思いますが、この映画化を機会に、またさらに原作に触れる人が増えてくれるだろうと期待します。

麻生久美子も田中麗奈も、ぼくのとても好きな俳優ですが、彼女たちにかぎらず、キャスティングが見事。個性、雰囲気、演技のどれもが、原作の登場人物にすてきな息吹をあたえてくれました。すべての俳優が、それぞれの個性を出しながら原作の登場人物と違和感なく一体化して、映画らしい生き生きとしたものにしてくれています。
個人的には、役作りでもあると思いますが、田中麗奈が元々の(たぶん)黒々とした太い眉にしていたのがうれしかった。

原作では、あえてとても抽象的な絵柄にしていた、川に横たわる死屍累々。映画ではどのように表現するだろうかと興味があったのですが、なるほどああしましたか。

上映中にはあちこちから鼻をすする音が聞こえ、ぼくもタオルを持って行って正解。同じ空間で、そうした気持ちの共有が感じられるという点で、映画というメディアはいいものですね。
でもこの映画は、DVDになったら今度は家でも観たい。映画館ではさすがに声をだしては泣けないから。


ひとつだけ、とても気に入らなかったこと。
この映画は文科省の特選になっていたり、さまざまなところから「推薦」や「推奨」をもらっていますが、広島県知事と並んで都知事の推薦も。たしかに、原爆こそ落とされなかったものの大空襲で十万人もの人が一日にして殺されたという点で、東京都の首長がこの映画を推薦するのは当然です。
ですが、おそらく個人としては反米という視点でしかこの映画に共感をもてないだろうあんたに、弱いものの存在や気持ちなどに思いをはせることなどなく、まさにその大量の市民がころされたその場所、やっと平和にくらせるようになったその街中で、こともあろうに戦車を繰り出して得意げにふるまうような好戦的なあんたに、この映画の推薦など、ぼくはしてほしくない。

2007.08.01 - 07:37 PM ||コメント (0)

『生きる』にクロサワの力を改めて思い知る

それほど期待はしていなかったけれど、それにしても、あれほどひどい劣化したドラマになってしまうとは。

『椿三十郎』リメーク版へのプロモーションとしてのドラマ化だったのでしょうが、だとすればプロモーション大失敗です。黒澤作品をまだ見たことのない人があのドラマを見て、「クロサワってすごい、面白そう」と思うわけがなく、むしろ逆の印象を受けるでしょう。
少なくとも『生きる』が名作と言われる理由は何もわからず、オリジナルを見ようという気をまったくおこさせないでしょう。

松本幸四郎なら演じられるかもしれない、どんなふうに演じるのか……という興味を持ってしまったのが間違いでした。幸四郎ひとりの力ではどうしようもないほどひどかった。

ドラマ作りに参加した人は、誰もオリジナルは見ておらず、シナリオだけをもらってドラマにしたんでしょう。そうであってほしい。
黒澤作品としての凄み、すばらしさの根源である演出がまったく引用されていないし、カット割り、カメラワーク、ライティング、音声、音楽の使い方すべてが、完全に量産型ドラマの文法になっていて、あの『生きる』をリメークすることへの気概が、まるでどこにも存在しなかった。
黒澤が大切にしたものが、何も生きていない。

ただシナリオを日本型ドラマ製造器に押し込んで自動的に出てきたもの。
黒澤を、映画を、そしてあそこに描かれた人生というものを、少しでも考えることがあったり、ましてや愛している人間が介在したものとは思えない。
幸四郎さんはこのドラマには出るべきじゃなかったなあ。

前の日にやった『天国と地獄』は撮っただけでまだ見ていないのだけれど、見ないまま削除しようかな。
織田裕二版『椿三十郎』は、予告編を見る限りオリジナルを忠実にリメイクしようとしたものみたいですが、だとすれば(だとしなくても、か)やっぱり見るのやめとくかな。
自分が大好きな映画を、がっかりしながら見せられたくはないよなあ。

画像がすり切れていようが、音声が多少聞きにくかろうが、オリジナルを何度でも繰り返し見たほうが、オリジナルへのリスペクトも、オリジナルからの学びもない映像を見せられるより百倍ましです。

そう、それこそ、いつ死ぬか分かっていない人間であったとしても、「わたしにはそんな暇はない」と言いたくなります。


▼追記

その後『天国と地獄』のほうを見たところ、『生きる』ほど酷くはありませんでした。ただ、時代背景がずいぶん違うこともあり、設定にはけっこう無理がある、とは思いましたが。
映画『天国と地獄』を見たのはだいぶ前なので、もう一度見比べてみよう。

2007.09.10 - 08:29 AM ||コメント (0)

さてと、『椿三十郎』。

まあ、どのように作っても文句が何かしら出るのはリメイクの宿命とも言えますが。

黒澤のモノクロ映画の中では、カラーの映像で見てみたかった一番の作品なので、そういう意味で楽しみにしていました。
オリジナルの撮影時の三船とほぼ同じ年齢になった織田裕二が、設定上も「もうすぐ四十郎」の三十郎をどう演じるかを見てみたい、とも。(それは、男の四十という年齢を考えてみる、ということでもあります)

予測どおり、織田の三十郎は終始ニヤニヤと軽いものでしたが、でも声は腹のそこからしぼりだすように、三船の声によく似た質にしていて、それは悪くなかった。

あらためてオリジナルと比べてみると、立ち居振る舞いや姿勢、落ち着きには雲泥の差がありますね。特に若いひとの。これは演出の差がもちろん圧倒的なのでしょうが、時代の差もあるかもしれません。今のわれわれは、かつての日本人のようにぴしっとした姿勢をすることができなくなっていますから、たとえ演技であっても、よほど指導をされないと難しいのでしょう。


さてそれにしても、総合すれば、森田監督や織田くんには「よくがんばりました」としか言いようがないです。
この機会にもう一度オリジナルの三十郎を見直していたのですが、今回のリメイク版と比較すればするほど、あらゆる点で黒澤版のすごさが明らかになるばかりです。
まったく同じ科白をしゃべっても、テンポ、間の取り方、抑揚、表情によって伝わるものがまるで異なるのを目の当たりにすると、伝え方の技術、心に訴える技術というものの重要さをあらためて感じさせられました。

まあ、脚本は完璧だし、映像もこれ以上にないお手本があり、それを元に作っているから、初めて見ればけっこう面白いだろうと思います。
そして、今作を見て面白いと感じたら、ぜひオリジナルを見てみてほしいですね。
やっぱり黒澤は、すごいです。ほんとにすごい。

以下は内容に関わるので、旧・新両作をごらんになった方は続きをどうぞ。

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2007.12.02 - 01:07 AM ||コメント (0)

紅白

中村中の出場、よかったですね。性同一性障害だった人が自らの希望と才能によって力を発揮する姿は、他の同じような人たちに勇気を与えるでしょう。
彼女の母親の手紙、我が子に一生十字架を背負わせてしまうことになってしまった、というものを紹介したことは残念に思えましたけれど。
肉体的な性と精神的な性が一致していない状態こそが不幸なのであって、それが解消され、自分の望む性で生きている今、もう彼女は十字架を下ろしているはずです。
しかし実の母親として、またそうした感覚を持たない人としては、一生の十字架と見えてしまうのかもしれない。それはしかたのないことです。
中村中さんは、その母の手紙に対し、母には苦労をかけていると思います、という言葉で答えていました。母の思いへのうれしさとともに、理解のギャップについてのさみしさつらさが、滲んでいるように思えました。
望む性で生きることができ、さらに好きな音楽の世界での成功を手にしつつある彼女のアイデンティティは、幼かったころに比べてずっと充実したものになっているでしょう。
視ているものに、あのやりとりが「かわいそう」という感覚を生み出すとしたら、それはちょっと残念なことです。

番組冒頭の、「赤組でも白組でもない桃組」という演出は、あまり好きではありません。彼ら・彼女らが芸としてやっているのはいいし、それぞれ立派なものです。
ただ、今の日本の社会の中では、ゲイ(gay)はお笑いとして消費されるばかりで、露出度があがっていても、それが決して普通のこととして認められる土壌が育つようには、なかなかなっていません。
「赤でも白でもない桃色」から、赤や白からみたら別の種類、ということになったり、あえて「ピンク色」と言わないでいても(あるいは言わないがゆえに)性的なおかしみを生み出してしまったり、といった、人々の感覚に与える影響が気になるのです。

こうした結果として、LGBTは、かわいそうな人たちか、特別な人たち、という「自分たちとは別の領域」に押し込めることでそうでない人たちが「安心する」、という図式が進んでしまうことをおそれます。

一方、この二人はファンなのでひいき目もありますけれど……
一青窈さん、ハナミズキが9.11を元にした歌であることが(不十分ながら)伝えられたこと、そして彼女が最後のフレーズを、マイクをおいて、手話で歌ったこと、よかったです。
小椋佳さん。どきどきしました。今回紅白の録画をしなかったことを悔やんでいます。まさか美空ひばりさんと小椋さんとの「デュエット」が聞けるとは……。

全般的には、曲間の妙なコントみたいなものがほとんどなく、出場者を生かしてうまくまとまっていたと思います。
まあ、音楽の種類が雑多すぎるのと、一年間一度もテレビで歌ったことがないんじゃないかと思えるような人が出てしまうのは疑問だし、いまどき男女で分かれて闘うという図式も、もういいんじゃないかという気はしますけれど。
高品質で楽しめる年末の音楽番組、という方向をすなおに目指せば、もっといいものができるんじゃないでしょうかね。

2008.01.01 - 03:43 PM ||コメント (0)

最近観た映像作品(『ジャンパー』他)

このところ堅苦しい話ばかりで、そのため筆もなかなか進まないので、自分用の記録も兼ねて、観た作品をメモ。

借りてきて観るもの、映画館で観るもの、放送を観るもの、放送を録画して観るもの。映画に限らずドラマも含めて。これをまとめてなんて言えばいいのかわからない。とりあえず「映像作品」としておきます。

ジャンパー

面白かった。ジャンプするときの音響と視覚効果が脳に残る。

主人公と、それに敵対する勢力のどちらもが、完全なる正義でも悪でもない、というところがよいですね。

見終わってからしばらく、自分がジャンパーになったとして、合法的に儲けるには何するのが一番効率がいいか、という思考遊技を楽しんでました。

「興行成績よかったら続編作ろうっと」という意志が見える終わり方だったのですが、ぜひお願いします。

エリザベス

この間、連れ合いに引っ張られて「エリザベス ゴールデンエイジ」を見にいったのですが、行ってからそれが続編であることを知りました。で、ちょうどWOWOWで放映したので録って観ました。

西洋史が忘却のかなたなので、もいちどちゃんと知らないといけんな、という思いを強くしました。

全体的に画面が暗く、映画館で観るにはいいけれど、明るいお茶の間のテレビで観るのは厳しいかも。

ちなみに、「ゴールデンエイジ」は、見事な衣装に眼を奪われました。

アンタッチャブル

お笑いのじゃなくてね、映画の。エリオット・ネス vs アル・カポネ。久しぶりに見直しました。これもケーブルTVから録画。このところ日本社会における法支配のやるせない状況に鬱々としていたので、こういうの観るとスカッとします。

ほとんどフィクションとはいえ、この映画のアンタッチャブル4人衆はやはり魅力的です。

ちりとてちん

いまごろになって、見始めたんですが、いや面白い。すばらしい。初めから見ていなかったことを大後悔しているところです。といっても、どう考えても朝ドラを見ようと思う動機がぼくにはなかったのでやむを得ないんだけれど、それでも評判を聞いた年末ぐらいから見ておくんだった……。

脚本家の力を見せつけられるこういう作品、大好きです。毎日15分ではものたらなくて、一週間分じっとがまんして溜め、一気に観ています。

篤姫

宮崎あおいの演技を見るのは初めてかもしれないのだけれど、実に魅力的な姫を演じています。まわりの配役もいい。特に、山南さん改めエキセントリック家定がどう絡むか、ワクワクです。

『ちりとてちん』も『篤姫』も、オープニングがけっこう好き。日本の伝統絵画や文様をCGで動かすあの映像、作るの楽しいだろうなあ。

2008.03.10 - 11:55 PM ||コメント (0)

『明日への遺言』

主人公が「美し」すぎる。
事実および大岡昇平の原作(『ながい旅』)は知らないのですが、少なくとも映画としては、ぼくは少しものたりない。
殺さなくてもよい人を殺せと命令した人物には、もっと葛藤があってほしかった。実際に手を下した部下は、「殺さないでくれ」と懇願する米兵に刀を振り下ろしたことへの苦悶を告白していますが、本人は部下を守るという大義と法廷闘争上の論理に身を固め、葛藤がみえない。
制作者の本意ではないかもしれないけれど、見方によっては、「美しい日本」を慰撫する「自慰史観」にも見えてしまって残念。

もちろん、東京大空襲を行った米国の非道さに疑う余地はないですし、その異常な状況下での出来事です。実際の岡田資中将は、葛藤の上での論理的判断から、あのような誇り高き行動をとられたのだと、であるからこそ大岡昇平も描きたかったのだと想像します。
この間日テレでやったドラマ『東京大空襲』は見損ねてしまったのだけれど、あれを見てからだったら印象違っていたかなあ。映画の冒頭の空襲の映像は、当時のものをそのまま使っていて、痛ましいものだけれどやや淡々としすぎていた。いえ、淡々としていても、眼を覆うような映像なんですけれどね。

でも、潔くカッコヨク死んでいくより、迷い恐れ悩みながら生きながらえていくところにこそ、ぼくは人の生きる美しさがあると思うのです。正直であるという美しさが。
……などと考えていると、つまりはぼく自身が、とうていカッコヨク生きられないと知っている、自己弁護、かもしれないですねえ。


細かいことですが、劇中、坐禅を組みながら南無妙法蓮華経を唱えていたのに違和感。そんな宗派あるのかなあ。

2008.03.27 - 09:09 PM ||コメント (0)

観劇『だるまさんがころんだ』

昨年秋に『ワールドトレードセンター』を観て、強い印象を受けた「燐光群」坂手洋二さんの代表作が再演と知り、観てきました。
テーマは対人地雷。次々と様々なシーンに移り変えながら、演劇でしかできない表現と手法で、テーマに切り込みます。
ユーモアも交えながら、なんですが、それがまた内容の重みを増す効果を出していて、ずっと胸が締め付けられっぱなしの2時間でした。

場所は笹塚ファクトリー。駅からすぐだし、こじんまりとしていて、席も階段状で見やすく、いい劇場でした。
坂手さんの舞台は、またぜひ観てみたい。

川田龍平議員も来ていました。きれいな人といっしょだなと思ったんですが、最近結婚されたばかりだったんですね。知っていれば、おめでとうの一言でもかけたかったな。


燐光群サイト「だるまさんがころんだ

公演情報は今回もまた高野しのぶさんのメルマガで知りました。いつも選りすぐった情報を感謝です。

2008.03.29 - 10:57 PM ||コメント (2)

『闇に咲く花』の忘れがたさ

「忘れることは罪だ。忘れたフリをするのはもっとわるい」

井上ひさし脚本、こまつ座の公演を見てきました——。

あの戦争のとき。何があったのか。そこにいたひと、そこにいた自分は何を考え、何をしたのか。
それらを正面から見据えることからしか、間違いを犯さないようにする方法はない……。
忘れたフリをしつづけている権力者への批判を底流におきつつ、流されて行動した一般の人々のなかの忘却や、忘却のフリに対してもまた強い批判を浴びせ、忘れないためのつらい勇気を称え、つらい結果を引き受けようとします。

しかしまた同時に、様々な苦しみを抱えている市井の人々を励まし、暖かく見守る視線にもまた満ちています。苦しみをやわらげるしくみや、互いの思いの交流を愛おしく描いています。

20年前の脚本だということをあとで知りましたが、今この時代にあってこそ、井上ひさし自身の、少なくなってゆく同時代の仲間への悲痛なメッセージにも、思えました。

井上ひさしとこまつ座の芝居を生で観るのは初めてでしたが、期待通りの魅力的で豊かな芝居でした。
そしてひとつひとつの言葉をたいせつにした科白の数々。

ただ、客の年齢層がけっこう上だったのが気になりました。
特に今回の演題などは、今、高校野球の球児だったり、スポーツにとりくんでいる若い人達にぜひみてもらいたい内容だったので……。
いっしょに頑張っているチームの友人たちが、餓えたり、撃たれたり、溺れたりして、みんな死んでしまう。みんないなくなってしまう。
そんなことを、今の高校生は、大学生は、若者は、想像できるだろうか。

想像しがたいことです。でも想像しなくてはいけないことです。
そして今のうちに、忘れていないひとたちに、忘れがたい話をもっと伝えてもらわなければ。

体験をもたないぼくたちにとっては、知らないことは罪だし、知らないフリをすることは、もっと悪い。





こまつ座ホームページ[komatsuza.co.jp]

今回もまたまた、しのぶさんのメルマガ[mag2.com] から。
チケットを買おうと思って失念していたところに、号外を出してくれたことに感謝です。
しのぶさんの推薦には、はずれがない。みんな見たくなってコマリマス。

2008.08.26 - 10:51 PM ||コメント (0)