科学と、科学でないもの  (公開順)

『日経サイエンス』(2004.03)

・「私たちはなぜ眠るのか」
睡眠すること、そしてレム睡眠とノンレム睡眠が存在することの理由はまだよくわかっていない。
覚醒時に傷つけられてしまう脳内の細胞はノンレム睡眠時に修復されているらしく、それがノンレム睡眠の存在する理由、という仮説。
この仮説が正しいとすると、寝だめができないのはうなずけるような。細胞が修復されきってしまえばそれ以上眠っても意味がないものね。
日中、電車を待っているときなどの意味のない時間に、5分でもノンレム睡眠ができれば、その間に少しでも修復しなければならない細胞が減って、夜あまり寝なくてもすむのかな。
もっともぼくはそういう寝方ができないので残念。
眠るのはすきだけど、寝る時間がもったいないと思うことは多い。食べることもそうだけど、好きなときにだけすればいいようになればいいのにと思います。

・「グルジアの化石が明かす初期人類の旅」
初期人類がアフリカで発生して、アフリカを出たのは100万年前と言われていたのだけれど、黒海沿岸で175万年前の原人化石が発見されたそう。まだほんの一部しか発掘がすすんでいないようなので、10年後には人類の初めの歴史ががらりと書き換わっているかも。こういう話は、わくわくする。

・「米探査機 火星着陸」
NASAのサイトで動向はいちおう追ってるんですが、探査車の大きさ、ちゃんと知らなかったけど、思っていたよりけっこうおっきいんだな。1.5m×2.3m×1.6m。
赤い大地で、がんばれ、スピリット。オポチュニティー。

2004.02.20 - 05:17 PM ||コメント (0)

木星

あたたかくなるにつれて、東京では星がどんどん見えなくなってくる。

それでも、晴れていれば、明るい惑星は容易に見つけることができ、このところは火星を見るたびに、岩だらけの殺風景な土地でけなげに動き回っているはずの二台のローバーに思いをはせてしまう。

しかし今は火星が西に沈む時間が早いので、夜中に帰る道々見上げる空には、もうあの赤い惑星を見つけることはできない。
そのかわりに空高く明るく輝いているのは、木星。
あの巨大な惑星の美しく複雑な縞模様や、木星が伴う四大衛星、ことに、激しく火を噴きあげるイオの姿を目の当たりにすることができたらどんなにすばらしいだろう。
とはいえ、それがかなうことは文明の進んだ友好的な宇宙人が地球を訪れてくれないかぎりありえない、という確実性が、さらにあの惑星へのあこがれを強くします。
せめて、生きているうちに、あの大赤斑の謎——なぜあのような巨大な渦ができ、少なくとも300年以上にわたって安定して存在しつづけているのか——が解かれることを祈るばかりです。

ところでぼくは、ホルストの『惑星』がとても好きで、ことに『Jupiter』は、上記のような思いを抱きながら想像する巨大な木星の映像にぴったりの勇壮さをもつ、大好きな交響曲です。
ところが、最近は、ラジオ、テレビ、それに町中でも、平原綾香の『Jupiter』をよく聞くんですよね。売れてるんでしょう。別に悪い詞だと思わないのだけれど、交響曲を聴くときに、木星の印象とはまったくことなる詞が頭に浮かんできてしまうのは避けたく、なので聞こえてくるとついつい、聞こえないところに逃げ出してしまいます。

2004.03.13 - 01:13 AM ||コメント (0)

どうでもいい血の話

「あなたの血液型って何?」と聞かれれば、ぼくはとりあえず応えますが、そのあとですることになるやりとりには、ぼくの気持ちはまったく入ってません。興味のないスポーツの話をするよりももっと興味がなく、ほんとにどうでもいいと思っていて、違う話題に早く移ろうと考えています。

それにしても、どうしてこれほど「血液型は性格と深い関連がある」ということが信じられているのか、ほんとうに不思議でなりません。

「○○さんって、何型?」
「え、A型だけど」
「A型なの〜? えー、ぜんぜんA型っぽくな〜い」
なんて会話はよく聞きますよね。
ある血液型と、ある性格に相関があるとしていながら「ぜんぜんA型っぽくな〜い」と認めるのってどういうことなんだろう?
「ぜんぜんA型っぽくな〜い」という例が見いだせるということは、血液型と性格とは関係がない、ということではないの?

血液型と性格の相関は占いとかじゃなくて統計的に証明されている科学だ、と思っている人は、そのような統計をどこでみたんだろう?

まだ占星術やカード占いのほうが、たった4種類しかない血液型よりもずっと複雑で信じやすそうです。
にもかかわらず、この社会ではどうみても血液型性格判断のほうがはるかに普遍的な信頼を得ています。

そういう意味では、この社会が、なぜみんな血液型性格判断に執着するのか?ということには、とても興味を覚えます。

2004.03.25 - 10:35 AM ||コメント (1)

「こちら」でがんばるしかないか。

幽霊を見たり、存在を感じたりする人がいる。

ぼくは一度も幽霊に会ったことがないのだけれど、そのような話題になると興味津々。
幽霊に会える人が、うらやましい。
ほんとうに、心から、幽霊に会ってみたいと思っています。

怖いかもしれないけれど、その怖さをなんとか克服して、ぜひ聞いてみたい。
「そっちはどうなの?」

けっこう幽霊を見たり会ったりする人は多いようなのに、どうしてちゃんと「向こう」の話を誰も聞いてくれないのだろう。

「向こう」が、たとえどのような世界であれ、存在するとわかれば、どんなに心休まることだろうか。
死を迎えても、その先があるということに確信がもてれば、どれほど救われることだろうか。

「臨死体験」では、よく向こうから呼ばれるという話は聞くけれど、そのような死に際の意識の中ではなく、現世に出現する幽霊が「あっちの世界はいいから早くおいで」と勧誘する話はあまり聞かない。
逆に「向こうは酷いからぜったい来るな」と幽霊がしゃべった、なんていう話も聞かない。

つまり、幽霊がいるとしても、彼らがいるのはやっぱり現世であって、「向こう」は存在しないんだろうな。
つまんないの。

2004.03.27 - 06:14 PM ||コメント (0)

知るための方法を知るための方法

科学というものは、実験と計算でできた冷たいゲンジツ、みたいに見られているところがあります。

でも本当はそうではなく、わくわくする気持ちを源泉とした、世界の秘密を知るための方法、であるとぼくは思います。
そしてその「方法」は、科学者でないぼくらにとってもまた、この世の中でいろいろなことを知ったり考えたりするために絶対必要な、とても大切な「方法」です。

科学とは、知識ではなく方法だ、とずっと思っていたぼくですが、その方法そのものを考える学問がちゃんとあることを、最近になってようやく知りました。
自分の不勉強さにあきれつつ、またひとつ面白いものに出会えた喜び。

「科学哲学」とよばれるその学問をぼくに紹介してくれたのは、「科学と科学でないものの線引き」という課題を通して科学とは何かを考える『疑似科学と科学の哲学』という本。とても勉強になりました。
科学それ自身についての理解はもちろんですが、「どのように知り、考えるのか」ということについて「知り、考える」ためのとてもいい教科書です。
頭をフル回転させながらでないと読み進められないので、時間がかかりましたが、でもたぶんこれからも何度もひっくり返して読むだろう一冊です。

疑似科学と科学の哲学
伊勢田哲治著、名古屋大学出版会刊
ISBN:4815804532

著者は名大助教授で、名古屋大学出版会刊だから、実際に教科書として使われているものだと思います。
そういう意味では、「どのような題材で、どのように教えるか」ということについても、とても参考になりました。内容は堅いけれど、構成も文章も読みやすく、おもしろいので。

2004.05.01 - 01:52 AM ||コメント (0)

火山灰

今日はなんだか机の上やキーボードがザラザラするなあ、掃除してないわけでもないのに?と思ってたんだけど、夜にニュースを見ていてわかった。
浅間山の火山灰だったんですね。
最近ようやく涼しくなってきて、風が通るように窓を開放しているので、その窓からどうやら網戸をくぐり抜けて火山灰がわずかながら侵入した模様。

2004.09.17 - 08:42 PM ||コメント (0)

今年は火星

ぼくは「日本惑星協会[planetary.or.jp]」の会員です。
ここの協会は、会員に、毎年、カレンダーを送ってくれます。
去年は、太陽系の惑星の写真でしたが、今年は火星の写真だけで12ヶ月。
ちょうど一年前の今日、1月3日に火星の表面に降り立ったマーズローバー1号機「スピリット」と、少し遅れて到着した2号機「オポチュニティ」から送られてきた美しい写真を幾葉も採用したカレンダーです。(非会員も2000円で買えるみたいです)

今年は、土星探査船カッシーニからの情報もこれからたくさん見られるでしょう、
地球ではたいへんなことがたくさん起きていて、眼が放せないけれど、ときには、空のかなたに気持ちを飛ばしたくなります。

2005.01.03 - 10:25 PM ||コメント (0)

ウナギにトキメキ

ニホンウナギの産卵場所が特定されたそうです。
こういうことがあるたびに、やはりなるべく長く生きていたいものだ、と思います。

まだ幼かったころ、科学のドキドキを教えてくれたことのひとつが、ウナギの秘密、でした。
誰もこれまでウナギの産卵を見たことがなく、どこで生まれているのかもわからない、ということを知ったときの驚き。
馴染みの深い身近な生き物の、そんなことさえまだわかっていない。

科学というものを「わかっている人がいて、教えてくれる知識」のように思っていたぼくが、そうではなく、「わからない人がいて、わかるために探している知識」なんだ、ということを、ウナギの秘密が教えてくれました。
そのときの感覚を今でも覚えています。
まだまだ世界は未知にあふれていて、わからないことを知ろうとする努力のもつ、実に楽しそうな雰囲気。

わからないことは、わからないままにしておいたほうがロマンチックで楽しい、という人もいます。

山芋がウナギになるんだとか、ウナギは金星の生物だとか、そういう妄想をたくましくするのも楽しいけれど、でも、真実がわかる楽しさには、とうていかなうものではありません。

そして、わからないことがわかったとき、実はその先にまたたくさんのわからないことが、待っているのです。
この世界の秘密も、人の知りたい気持ちも、尽きることがない。

今回、特定されたといっても数十キロに及ぶ海域にしぼられたということであって、産卵の姿や卵が発見されたわけでは、ありません。

だからその先には、なぜウナギがそんな遠くに行って卵を産むのかとか、いったい何を食べて大きくなるのかとか、なんで幼魚はあんな葉っぱみたいな形なんだとか、不思議はまだまだ続いています。

少しでもたくさんの不思議を知るために、やっぱりなるべく長く生きていたいものです。

ニホンウナギ:産卵場所はマリアナ海域 東大海洋研が特定

生態に謎の多いニホンウナギについて、東京大学海洋研究所のチームがふ化したばかりの赤ちゃんウナギ仔魚(しぎょ)を世界で初めて大量に発見し、産卵場所を突き止めたと発表した。場所はグアム島近くのマリアナ諸島西方海域。(中略) 23日付英科学誌ネイチャーに掲載される。

mainichi-msn.co.jp

2006.02.24 - 05:52 PM ||コメント (1)

ウソにはインチキで——松岡農水相と擬似科学商品

「この商品は信用できない」、とぼくが判断する要注意ワードがいくつかありますが、そのひとつが、水関連商品における「クラスター」です。
クラスターというのは科学用語ですが、しかし水関連商品でこの用語が使われていたら似非科学だと思って間違いがない。つまりインチキです。


松岡利勝農林水産大臣の光熱水費疑惑。「なんとか還元水」と答弁していたものは「ナノクラスターGeルルド水」(オーガニックゲルマニウム株式会社販売)であると報じられています。

クラスターに加えて、「ゲルマニウム」と「ルルド」。

健康を謳う商品においてゲルマニウムの名を冠しているのも要注意です。体によい証拠はなく、むしろ摂取することで中毒になる危険があります。厚生労働省はゲルマニウムを含有させた食品の取り扱いについて注意の通知を出しています。

ルルドは、キリスト教の「ルルドの泉」の話に依拠しているものでしょう。ある少女がマリアの姿を見たというルルドの地にある泉。この泉に治癒効果があるという「伝説」です。

つまりは、要注意ワードだけでできてるような商品名ですね。


松岡農水相がウソの報告をしていた、ということが真相だろうと、だれもが思うわけです。が、百歩譲っても、光熱水費としてミネラルウォーターを計上するのは問題でしょう。確定申告のこの時期に……松岡大臣の言葉を言い訳に妙な申告する人がいるんじゃないですかね。

「今、水道水を飲んでいる人はほとんどいない」という発言もあったし、これには、水道水の安全性、浄化や味に命をかけてきた水道局の方々はどんな思いでしょうか。(水道水は、清涼飲料水であるミネラルウォーターより水質基準が厳しいのです)

国税庁、水道局、厚生労働省はそれぞれ厳重に抗議すべきです。
そして野党やマスコミは、当然のことながら、こうしたウソをつかせる以前に、事実を明らかにして責任を問うてほしい。もちろん、大臣を任命した人の責任も。

ウソにウソを塗り固めるために、擬似科学商品の宣伝の片棒をかつがれたんではたまったものではないですね。そういう意味では文部科学省も抗議すべきかも。

2007.03.14 - 11:19 AM ||コメント (0)

『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』

「We are not alone. —— 宇宙にいるのは、われわれだけではない」
というコピーを初めて見たときの、わくわくするような気持ちを忘れることはできません。
そうだよなあ、と素直に思い、なんだか安心したような気になったものでした。
このコピーのつけられた映画『未知との遭遇』をぼくは大いに楽しみ、今でも大好きな映画のひとつです。

そうした気持ちは、セーガンをはじめとする科学者が、様々な方法で地球外知的生命の探査を実施したり、地球外知的生命へのメッセージを惑星探査機に搭載したりする試みを知るにつけ増大され、SETI@home[berkeley.edu]が始まったときにはウキウキしながらMacにインストールして、コンピューターを使わないで放置することに喜びを見いだしたりしたものでした。(今でもSETI@homeは入れているのですが)

さて、この『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』という本。
発売当初からチェックしていて、「いずれ読むリスト」には入っていたのですが、なぜかすぐに読もうと思うまでにはいたらないでいました。しかし、読み終えた今はむしろ、なぜ早く読まなかったのだろうかという思いを強くしています。

原題は "If the Universe is Teeming with Aliens.... WHERE IS EVERYBODY?"(宇宙がエイリアンだらけであるなら、そのみんなはどこにいるんだ?)。

このテーマの探求そのものも非常におもしろいのですが、それよりもぼくにとっての一番の魅力は、「フェルミのパラドックス」に対する50の回答において披露される、わかっている事実を元に別の事実を推論していく過程です。それは科学そのものの魅力であり、また思考するということの喜びでもあります。

そしてこの本の結論は……宇宙にいるのは、たぶん、われわれだけだ、というものです。
それが意味することは、こうしてぼく自身が限りない喜びと感じる「思考」や、宇宙そのものの存在、そしてその中にいるわれわれという存在への「認識」もまた、このあまりに広大な宇宙のなかで、たぶんわれわれだけが持っている、ということでもあります。

冷静に事実を見つめ、正確に思考しようとすればそうなる、という提示は、本エントリーの冒頭に示したうれしさとはうらはらに、残念ながらぼくも納得のいくものです。推定による数値のいくつかは、事実のものとは異なるものもあるでしょうが、それにしても結論が変化するほど大きな違いはないように思えます。

しかしながら、そうした数々の推論によって結論に至る過程で説明されるのは、つまりは地球、その上に生まれた生命、生物、人類、そしてその文明というそれぞれの存在の、恐ろしいほどの稀少さです。

137億年の長大な宇宙の歴史の中、940億光年の広大な宇宙の拡がりの中で、今ここにいるわれわれだけが、宇宙の存在を、時間の存在を、認識しているのかもしれない。

ちょっと想像しただけで頭がくらくらしてくる、無限といってもいいあらゆる偶然の重なり、仏教の用語で言えば「因縁」が果てしなく連鎖して、今こうしてブログを書いているぼくを存在させているということ。

このことはまた、この本をぼくが読んだ結果得た、もうひとつの大きな喜びです。
それは、身の引き締まるような孤独感でもあるのですが。

広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由—フェルミのパラドックス
広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由—フェルミのパラドックス
ISBN-10: 479176126X
ISBN-13: 978-4791761265

2007.07.10 - 08:43 AM ||コメント (2)

わからないからこその科学

科学とは、論理的思考と、実験と、実証です。
心霊現象や、宇宙人が搭乗しているUFOや、超能力を信じる人たちが使う常套文句に「科学でも解明できないことがある」というのがあります。

でも、そんなことはあたりまえです。
すべてのことが解明できてしまったら、もはや科学は必要ありません。わからないことをわかるようにするために、科学があるのだから。
「解明できないことがある」というのを科学の敗北のごとく言うのは、だからまったく科学というものを理解していない証左です。

科学では解明できていないことはたくさんあります。
肝心なのは、解明できていないということは、わからないということでしかない、ということです。
例えば幽霊の存在を科学は証明していません。存在しないという証明もしていませんが、だからといって存在することになるわけではありません。いるかいないかわからない、というだけです。
でも幽霊を見た人はたくさんいるって?
そうではありません。幽霊を見たと思っている人がたくさんいるのです。

「由紀ちゃんが今日、下駄箱のところでぼくに微笑んだ。由紀ちゃんはぼくのことが好きなんだ」
と、思うのは勝手ですが、だからといって由紀ちゃんがぼくのことを好きだとは限りません。往々にして好きなわけではなく、勘違いです。
往々にして、幽霊はすすきや、何かの影や、ただの人です。
勘違いではない、ということをはっきりさせるには、みんなの前で、由紀ちゃんに、ぼくのことが好きだ、と言ってもらうよりほかありません。

科学ではわからないからといって、それがすなわち、ほかの要因によるものであると結論づけるのはおかしいのです。
AはBではない。ということが、AはCだ、ということにはならないのと同じです。
「空中を浮遊する円盤状の物体が、科学的にはありえない動作をしたのが観測された」
「だからそれは地球外生物の乗り物である」
というのは、論理が飛躍しています。
そこでわかっているのは浮遊物体が観測されたということだけであって、地球外生物が介在する根拠はなにもありません。
ほかにもたくさんある可能性のひとつだけをとりあげる必然性はなにもありません。


科学によって世の中のことがみんなわかってしまったらつまらない、夢がない、という人もいます。
ですが、世の中のことがみんなわかることなんかないし、いままでわかっていなかったことがわかるようになると、それにともなってわからないことがもっとたくさん増えるものです。
そうやってわかる範囲が拡がっていくとともに、わからないことも拡がってゆく。それこそが夢です。
それが科学の世界であり、科学のとても面白いところです。

2007.10.11 - 05:40 PM ||コメント (0)

『眼の誕生』

眼の誕生——カンブリア紀大進化の謎を解く 眼の誕生——カンブリア紀大進化の謎を解く
アンドリュー・パーカー著
草思社刊
ISBN-13: 978-4794214782

「光あれ」
と神が言ったのは、天地創造の直後でした。
世界のはじまりに光があるというこの話、実に象徴的に思えます。

この本では、「生物の多様性の増加は、光を見ることによって爆発的におこった」という仮説が、強い説得力をもって語られます。
いや、おもしろかった。

こういう本にしては珍しく、一人称が「ぼく」であるのが最初から不思議で、でもそうしたくだけた感じがまた読みやすかったのです。訳者によれば、これは気鋭の科学者である原筆者の、はじめての一般向け著書であり、筆者の青春記でもあるから、ということであえて「ぼく」にしたとのこと。なかなか勇気ある訳出ですが、成功しているのではないでしょうか。

この本を読んだあとでは、自分が今、眼を使って世界を認識しているということ、さまざまな色を判別しているということ、何かを見るという行為、そうしたものに強く意識がいくようになっています。
また他人や身近な動物が何かを見、そこから何かを思ったり判断したりするのを、今までとは違った感覚で観察するようになっている気がします。

5億4300万年前の、カンブリア紀の大爆発のとき、眼という見事な器官と、光という情報を処理する神経系を発達させた生物……そのなかのひとつが、間違いなく、今のぼくの生命につながっているのです。


眼が見えるということの意味。
なんという壮大な歴史。


2007.12.03 - 09:00 PM ||コメント (0)