紅白

中村中の出場、よかったですね。性同一性障害だった人が自らの希望と才能によって力を発揮する姿は、他の同じような人たちに勇気を与えるでしょう。
彼女の母親の手紙、我が子に一生十字架を背負わせてしまうことになってしまった、というものを紹介したことは残念に思えましたけれど。
肉体的な性と精神的な性が一致していない状態こそが不幸なのであって、それが解消され、自分の望む性で生きている今、もう彼女は十字架を下ろしているはずです。
しかし実の母親として、またそうした感覚を持たない人としては、一生の十字架と見えてしまうのかもしれない。それはしかたのないことです。
中村中さんは、その母の手紙に対し、母には苦労をかけていると思います、という言葉で答えていました。母の思いへのうれしさとともに、理解のギャップについてのさみしさつらさが、滲んでいるように思えました。
望む性で生きることができ、さらに好きな音楽の世界での成功を手にしつつある彼女のアイデンティティは、幼かったころに比べてずっと充実したものになっているでしょう。
視ているものに、あのやりとりが「かわいそう」という感覚を生み出すとしたら、それはちょっと残念なことです。

番組冒頭の、「赤組でも白組でもない桃組」という演出は、あまり好きではありません。彼ら・彼女らが芸としてやっているのはいいし、それぞれ立派なものです。
ただ、今の日本の社会の中では、ゲイ(gay)はお笑いとして消費されるばかりで、露出度があがっていても、それが決して普通のこととして認められる土壌が育つようには、なかなかなっていません。
「赤でも白でもない桃色」から、赤や白からみたら別の種類、ということになったり、あえて「ピンク色」と言わないでいても(あるいは言わないがゆえに)性的なおかしみを生み出してしまったり、といった、人々の感覚に与える影響が気になるのです。

こうした結果として、LGBTは、かわいそうな人たちか、特別な人たち、という「自分たちとは別の領域」に押し込めることでそうでない人たちが「安心する」、という図式が進んでしまうことをおそれます。

一方、この二人はファンなのでひいき目もありますけれど……
一青窈さん、ハナミズキが9.11を元にした歌であることが(不十分ながら)伝えられたこと、そして彼女が最後のフレーズを、マイクをおいて、手話で歌ったこと、よかったです。
小椋佳さん。どきどきしました。今回紅白の録画をしなかったことを悔やんでいます。まさか美空ひばりさんと小椋さんとの「デュエット」が聞けるとは……。

全般的には、曲間の妙なコントみたいなものがほとんどなく、出場者を生かしてうまくまとまっていたと思います。
まあ、音楽の種類が雑多すぎるのと、一年間一度もテレビで歌ったことがないんじゃないかと思えるような人が出てしまうのは疑問だし、いまどき男女で分かれて闘うという図式も、もういいんじゃないかという気はしますけれど。
高品質で楽しめる年末の音楽番組、という方向をすなおに目指せば、もっといいものができるんじゃないでしょうかね。

[映画・演劇・テレビ]
2008.01.01 - 03:43 PM |
『眼の誕生』 | 2008年希望の旅

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