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どうでもいい血の話
「あなたの血液型って何?」と聞かれれば、ぼくはとりあえず応えますが、そのあとですることになるやりとりには、ぼくの気持ちはまったく入ってません。興味のないスポーツの話をするよりももっと興味がなく、ほんとにどうでもいいと思っていて、違う話題に早く移ろうと考えています。
それにしても、どうしてこれほど「血液型は性格と深い関連がある」ということが信じられているのか、ほんとうに不思議でなりません。
「○○さんって、何型?」
「え、A型だけど」
「A型なの〜? えー、ぜんぜんA型っぽくな〜い」
なんて会話はよく聞きますよね。
ある血液型と、ある性格に相関があるとしていながら「ぜんぜんA型っぽくな〜い」と認めるのってどういうことなんだろう?
「ぜんぜんA型っぽくな〜い」という例が見いだせるということは、血液型と性格とは関係がない、ということではないの?
血液型と性格の相関は占いとかじゃなくて統計的に証明されている科学だ、と思っている人は、そのような統計をどこでみたんだろう?
まだ占星術やカード占いのほうが、たった4種類しかない血液型よりもずっと複雑で信じやすそうです。
にもかかわらず、この社会ではどうみても血液型性格判断のほうがはるかに普遍的な信頼を得ています。
そういう意味では、この社会が、なぜみんな血液型性格判断に執着するのか?ということには、とても興味を覚えます。
2004.03.25 - 10:35 AM |固定リンク|コメント (1)
気になる用語「わかった」
最近、新聞を読んでいて(ペーパーは取っていないのでサイトで読んでいて)、特に気になる用語のひとつがこれ、「わかった」という言葉です。
例えばasahi.comを今「わかった」で検索してみると877件がヒット。
20位内からいくつかをあげてみると……(内容が重要ではないので一部省略)
- 府肉連をめぐる偽装牛肉事件で、(中略)政治団体が事務所を置いていたことがわかった。
- 府肉連による偽装牛肉事件で、(中略)得ていた疑いのあることがわかった。
- 神奈川県三浦市三崎の(中略)が19日から行方不明になっていることがわかった。
- 厚生労働省の冊子発注をめぐる汚職事件で、(中略)受注していたことがわかった。
- 携帯電話の03年度国内出荷台数は(中略)研究所の調べでわかった。
気になるのは、この「わかった」の主語がない、という点です。
誰が「わかった」のでしょう?
「○○の発表でわかった」「○○の調べでわかった」という場合は、その「○○」自身は発表する前にすでに「わかって」いたはずなので、「わかった」のはその発表を聞いた記者なり新聞社でしょう。
しかしわかったことを記者が新聞で伝えるのはあたりまえのことで、なぜわざわざ「わかった」という言葉を使うんだろう。
上記の例はすべて、「わかった」を使わなくても書くことができます。
- 府肉連をめぐる偽装牛肉事件で、(中略)政治団体が事務所を置いていた。
- 府肉連による偽装牛肉事件で、(中略)得ていた疑いがある。
- 神奈川県三浦市三崎の(中略)が19日から行方不明になっている。
- 厚生労働省の冊子発注をめぐる汚職事件で、(中略)受注していた。
- 携帯電話の03年度国内出荷台数は研究所の調べによると(中略)だった。
また、「わかった」のがいつなのか、ということが不明なのも「わかった」が使われている文脈での特長のような気がします。
警察発表やシンクタンクなどの発表そのままを伝える場合に、伝聞であることを示したい意か、とも思ったのですが、一方で次のような書き方をしている記事もあるのです。
野村総合研究所の子会社のNRIセキュアテクノロジーズは21日、個人情報の取り扱いについて東証1部上場企業にアンケートしたところ、4分の3が「個人情報保護の社内規定はない」と回答した、と発表した。
伝聞とすることで、なんとなく微妙な責任逃れをしたい(あとで万が一事実でないことがわかっても言い逃れしたい)という気持ちの表れかとも思いますが、しかしそもそも、「わかった」というのは伝聞を示す言葉ではないので、であるならば「らしい」「そうだ」といった明らかな伝聞を示す言葉を使うべきですよね。
なので、責任逃れはしたいけれど、かといって、裏をとっていない、自分で調べたことではない、と思われるのは新聞社や記者のプライドを許さない、というような理由で「わかった」という言葉が使われているのでしょうか。
あるいは、事実の発生と、新聞での報知の間に時間がたってしまっているので、そのタイムラグに対するひけめのような感情が「わかった」に反映している、とか。
いずれにしても、何か腰がひけた、ずるい姿勢がこの表現にあるような気がしてなりません。
2004.04.23 - 02:13 AM |固定リンク|コメント (1)
Movable Type & XOOPSを導入してみて
blogの軽快さは、ここ数ヶ月使ってみてよくわかったのですが、さらに試してみる必要を仕事上も感じてきたので、自前で運用するべく、サーバを借りて、blog (Movable Type)と、コミュニティサイト作成システム(XOOPS)を導入してみました。
レンタルサーバがマニュアルを提供していてくれたこともあり、導入自体は簡単にでき、またココログからの記事とレイアウトの移動も、記事アーカイブファイルとテンプレートファイルをただ移すだけで、これまた簡単にできました。すばらしい。
でも、もっと簡単になってほしい。簡単であるのと自由度が高いのは往々にして相反することは承知の上で。
現状でも解決できると思われる問題点は、Movable TypeもXOOPSもスタイルシート(CSS)を使ったレイアウトを基本としているにもかかわらず、それがかなり不十分であること。
段組(というかグリッドシステムだな)を使ったレイアウトをCSSだけで行うには姑息な手段をとらなければならないという、如何ともしがたい問題もありますが、それをおいておいても。
Movable TypeもXOOPSもHTMLの側にレイアウトや表現をさせている部分があったり、HTMLで文書構造を記述すべきところを表現方法を記述してしまったり(ただの見出しをhではなくlegend使うなど)するところがとても気になりました。
オープンなシステムなんだから自分で直して、さらにはMovable TypeやXOOPSの開発コミュニティに貢献したいという気持ちはもちろんヤマヤマあるのですが、やるとなれば徹底的にやらないと、現状と五十歩百歩だし、そもそもそんなことをしたいわけじゃないんだけど、という気持ちが強いです(もちろんそれでもやらないよりましだから、実際やったら何かの形で伝達するでしょうが)。
これはMovable TypeやXOOPSと、それらの開発コミュニティへの文句ではまったくなくて、文書構造を記述することと表現方法を記述することを分離しようとするHTML/CSSの試みが、残念ながらまだまだこれからだなあということです。
その最大で最悪な原因は、圧倒的なシェアを誇るユーザエージェント(IE! おまえのことだヨ)がちゃんとしたインプリメントをしていないということでしょう。
そのために「CSSを使わなきゃ」と思う人も、難しいが故についHTMLで実現してしまうということ。
結果としてCSSを使う意味が半減してしまうのは残念なことです。
ぼくのところではblog以外にも、まとまったテキストとかを載せたり、Wikiを使ったり、掲示板はあまり使わないと思うけどほかの機能を加えたり、そのような部分はXOOPSでカンタンにと思っているわけですが、そうするとXOOPSとMovable Typeで、少なくとも基本的な部分は同じCSSファイルを参照するようにしておきたいわけです。
そのためにはそれぞれのテンプレート、場合によってはPHPにも手を入れる必要があるので、当面は見た目だけ同じにしておくことにしました(でもそれもまた手間だったのでなんとか共通にしたいけど)
とは言え、Movable TypeもXOOPSも、よくできたシステムです。面白い。
なおMovable TypeのHTML/CSSを改良する試みはインターネットマガジンでyuuさんが実施されていて、とても参考になります。CSSかくあるべし。
「プロが教えるMovable Typeの構造デザイン」
2004.05.09 - 03:52 PM |固定リンク|コメント (2)
名前のローマ字表記
日本人の名前の表記は、一般には姓・名という順で書かれますが、ローマ字で表記するときには、欧米の多くの国と同じように名・姓の順で書かれることが多いですね。
しかしその書き方が、ぼくはどうも好きになれません。
名前の表記方法はその国の習慣に沿うべきであって、日本の一般的な名前の場合、文字が漢字や仮名からローマ字になったところで、姓・名の順序を変える必要はないと思うのです。
そのため、ぼくは特に求められない限りは、自分の名前をローマ字表記するときも姓・名の順で書くようにしています。
ただしその場合、どちらが姓かを明示するために姓を全部大文字にするか、姓と名の間にコンマを入れるか、もしくはその両方を併用して書きます。姓を大文字で書くのがわかりやすいと思うのですが、ぼくの姓はローマ字で書くと長くなるので、見た目によってコンマだけですますこともあります。
ローマ字での名前の表記のしかたのガイドラインはないのかなと思い、あるとすれば文科省の仕事、たぶん国語審議会の仕事だろうと思って検索してみたら、ちゃんと答申がされていました。
「国際化に伴うその他の日本語の問題」 のページの下の方に「姓名のローマ字表記の問題」という形で記述があります。
ぼくが今書いたように、姓・名で書くことが望ましいとされていて、表記のしかたの例も同様に乗っていました。ちょっと安心。今後は堂々と、姓・名の順で表記することにしよう。
2004.05.13 - 06:31 PM |固定リンク|コメント (0)
気になる用語「わかった」2
千葉県で、小学五年生の女の子が、知り合いの47才の男性と行方不明になり、沖縄でみつかって、女の子は保護、男性は誘拐容疑で逮捕されるという事件。
誘拐されたとされる女児が、容疑者(47)が沖縄で決めた勤務先の従業員に、「(千葉県の)家に帰りたくない」「沖縄に行こうと(容疑者を)誘った」などと話していたことが分かった。(毎日新聞)[5月16日3時38分更新]前日深夜の同じ毎日新聞の報道[5月15日23時28分更新]では
8日、祖父(54)が千葉東署に届け出た際、「容疑者に連れていかれたかもしれない」と話していた。あるいは
男性は毎日新聞の取材に対し、「女の子の家庭が複雑で、家を飛び出したと聞いた。自分の子供と一緒に遊ばせていた。容疑者はおとなしい感じだった」と話した。(毎日新聞)とあります。
「話していたことが分かった」
「千葉署に届け出た際……と話していた」
「毎日新聞の取材に対し……と話した」
のように、文末の言葉が微妙に違うのと、それに対応して「誰に聞かれて」話したかという点が違っています。
やはり「分かった」というのが不明瞭で、それはわざとそう書いているように思えます。
この記事のタイトルは「<女児誘拐>知り合いの男逮捕 千葉から沖縄まで連れ回す」です。
「誘拐」の正しい定義を知りませんが、しかし最後の報道『<女児誘拐>「帰りたくない、沖縄に誘った」と女児話す』を読むと、女の子の要望に従って男性が連れていった可能性があるようです。両親とは住んでおらず、祖父母・叔父と住んでいたようですし『祖父は「警察に何度も2人を引き離すよう言っていた。』ということからも、そのようなことを警察にわざわざ言う祖父家族との関係よりも本人が男性を慕っていた可能性があり、だとすると誘拐という言葉にはふさわしくないような。ひょっとしたら、男性が女の子をまさに「保護」しようとし、また女の子もそれを望んでいたのかもしれません。
また、時事通信の記事では「現金引き出し潜伏先発覚=千葉の小5女児、ビーチ近くで保護−沖縄」とありますが「潜伏」という言葉もなにかしっくりきません。
もちろんこれは仮定の話なので、実際に誘拐なのかもしれず、潜伏なのかもしれません。ですが、そうでない可能性もあります。であるのに、その言葉を使っている。
で、最後で誘拐じゃないかもしれないとトーンダウンしてきて、その記事になったら文末が「分かった」になっている、というのはやはり理由のあることではないでしょうか。なんか責任逃れの気配がするのですよね。
事件としては結果的に大事なものではありませんでしたが、この女の子と男性にとっては、報道されたこと自体がこれからの人生に大きく影響するでしょう。報道されていなければ、それもこのような言葉を使った報道でなければ、本人と家族だけの問題であったはずです。
新聞に多々掲載される他の事柄と比較すれば小さなことですし、言葉の使い方もほんとうに細かいことですが、その細かい言葉の使い方ひとつで、人の人生に影響があるかもしれないことを意識していたいと、文章を扱うことを仕事の一部とするぼくは考えます。
そして、言葉の使われ方にあらわれる、伝える側の意図を読み取りながら、事実を見極める目を持ち得たいと思います。とても、むずかしいことですけれど。
※なお、上記引用元ではいずれも容疑者実名ですが匿名にしてあります。
2004.05.17 - 01:29 AM |固定リンク|コメント (0)
スペインの雨は主に広野に降る
これもまた、数多くの報道の中では、それほど大きな話ではないのだけれど、短い報道の中に複数の興味をひく点があったので。
スペイン皇太子、マドリードの大聖堂で結婚式
【パリ=池村俊郎】スペイン王室フェリペ皇太子と、皇太子妃となるレティシア・オルティスさんの結婚式が22日、首都マドリードのアルムデナ大聖堂で行われた。
皇太子妃は元国営テレビ記者で、離婚歴がある。スペイン女性が王位継承者の伴侶となるのは19世紀末のマリア妃以来。日本からは皇太子さまが出席された。
(2004/5/23/00:25 読売新聞)
- 「スペイン皇太子」に対して、日本からは「皇太子さま」。ぼくらのいるこの国では、身内についてはへりくだって表現するのが正しい言葉遣いだったはずだけれど。「スペイン王室フェリペ皇太子」ならば「徳仁皇太子」で対等な表現でしょう。日本の皇族は、自国の謙譲精神をも凌駕するほど、世界の王族の中でえらいものなのか。
- スペインの王位継承者にスペイン人が嫁ぐのは100年ぶり。スペインの現代史を象徴するような話なんですね。
- 「離婚歴がある」と、この短い紹介の中で、あえて言及されるのか。まあ、系統を保持するのが王族(皇族含む)の一番の役割だとすれば、結婚というものが重視されるべき「仕事」であることは当然ですけれど。でもこの時代に、わざわざ言い及んでいるのは、海外のメディアでも同様なんでしょうか。
- マドリードでの話なのに、配信元はパリ。読売はスペインには記者を派遣していないんだな。池村記者はマドリードに行ってるんだろうか。行ってても配信元は派遣先であろうパリになるのかな。それともパリにいながらの取材?なんだろうか。
2004.05.22 - 11:09 PM |固定リンク|コメント (1)
知るべき理由
長崎の少女の事件は、胸が苦しくなるような事件です。
あまりにもいたたまれない(被害者側だけでなく、加害者側に対してもまた)話です。
ただ……事件直後の報道で知らさせることの多くは、推測やごくごく断片的な事実でしかなく、それで何かを考えたり判断することの無意味さと危険さを、オウムをはじめとするたくさんの事件でぼくたちは経験しているはずです。
ぼくはこの事件の報道を読んだり見たりしないようにしています。
何年かして、ちゃんとしたジャーナリストが本のような形でまとめたときには、読むかもしれません。
しかしそれでもなお、彼女たちになにが起きたのか、それがほんとうにわかるものではないという気がします。
こうした事件ばかりでなく、毎日のようにおきる殺人、強盗、火事、事故、盗難、強姦、痴漢などなど、さまざまな事件が報道されていますが、そのような報道を見るにつけ、これは何のために報道しているのだろうということを考えます。さらに言えば、これらのことを、報道する必要があるのだろうか、と。
事件から教訓を得て、同じことがおきないようにする、というのが一番まっとうな理由でしょうが、教訓を得るためには正確な情報や詳細な分析が必要で、また綿密な対策も同様に提示されなければならないはずです。現在テレビや新聞で報道されている事件のほとんどが、こうした条件を満たしていないことは、ちょっと考えてみれば明らかです。
事件が報じられることによって、「事件を起こすとこういうことになるのだぞ」という見せしめ=予防効果はあるでしょう。しかしそれも、仮にも法治国家であるならば、報道自体によって断罪されることがあってはならず、まして容疑者の段階ではなおさらです。裁判によって裁かれた後、こういう罪はこういうふうに罰せられる、という報道によってのみ、予防効果を生み出すようにしなければならないはずです。
あるいは、事件がまだ継続中で、それを知らされないことによって被害が拡大するおそれがある、という理由もありえるでしょう。しかしそうした被害が全国的におきると予測されるような大事件は、災害や原発事故など広範囲にわたるものなどで、そうそうあることではありません。日頃おきている殺人や強盗は、ある限られた地域への警告は必要でしょうが、たとえば九州でおきたことを北海道で警告する意味はほとんどありません。
そして警告するのであれば、どこで誰がという内容などよりも、それがどのようにして起こり、だから、どのようにして防げばよいか、ということこそが内容にならなければなりません。
もちろん、隠蔽しろというのではありません。
ただ、「知る権利」という言葉がありますが、権利はあっても、では必要はあるのだろうか、と思うのです。
個々の報道には、報道することのプラス面とマイナス面が常にあるでしょう。それを差し引きした上で、プラス面が多い、ということを確認、もしくは想定して、報道がされているのでしょうか。
ことに今回のような事件の場合、報道されることのプラス面よりもはるかにマイナス面の方が大きいのではないか、と思えます。
これが、「変質者が学校の帰りに子どもを襲った」というような事件であれば、子どもに防犯ベルを持たせるとか、送り迎えをするとか、対策のとりようがあります。
ですがあのような事件では、心に重いものを沈殿させるばかりで、どうしようもありません。ナイフを使わせないようにするとか、インターネットを使わせないようにするといったことで解決できる問題ではないでしょうし、そうするべきでもありません。
その一方で、全国の人、ことに同世代の子どもたちと、そうした子を持つ親に、いいようのないショックを与えているでしょう。そのダメージはいかほどであろうかと思うのです。
子どもに対して、知らせない、見せないほうがよい情報にフィルタをかける指導のしかたやしくみを、報道にもあてはめるべきでしょう。現実の事件は、架空の話が持つのとは比べものにならないほどの力があるはずです。バトロワをいくら制限して見せないようにしても、食卓で家族揃って見る7時のニュースで子どもによる子どもの殺人が報道されていては、意味がありません。
知る必要があり、知ろうと思ったときには、いつでも知ることができるようになっている、そのような形で「知る権利」が行使できればよく、知りたくないこと、知らない方がよいことまでが知らされてしまうことの問題を、報道でもちゃんと考えなくてはいけないはずです。
これはもちろん、報道する側の問題というよりも、むしろそれを見る側の問題でしょう。視聴率や部数に結びついているからこそ、報道機関は報道するのでしょうから。
のぞき見趣味や、他人の不幸を蜜の味とするがために「知る権利」を行使すべきではありません。
2004.06.12 - 03:12 PM |固定リンク|コメント (0)
青山ブックセンター追悼
一青 窈の歌う「大家(ダージャー)」のフレーズが頭の中ではげしくリフレインしている。
なんということ。
こんなに突然に、大切なものを失うとは。
失ってから、これほど大切だったことに気づくとは。
ひとりの信頼すべき親しい人間の死に対面したかのような
失うことでこれほどの悲しみを与える場所がほかにあるだろうか。
強いストレスを抱えたとき、つらい思いにいたたまれなくなったとき、
終電も気にせずに、何時間かをすごし、
自らをふりかえる余裕と、元気や勇気を、新しい何かを作る活力を、
いつも与えてくれた場所が
これほど突然に、消滅してしまうとは。
ABCよ。
あなたを支えられなかったことを、ぼくは本当につらく思う。
もうしわけなく思う。
「編集」の行き届いた棚そのものが、
ものづくりとはこのようなことだ、ということを
情報を伝えるとはこのようなことだ、ということを
その技術とこころざしを、
訪れるたびにいつも教えてくれた。
ついおとといも、あなたの懐で2時間、いだかれて、
あたたかさと強さ、前を向いた思いを、ぼくの中にめばえさせてもらったのに。
誇り高きABCをも維持できないほど、
この国の出版は死に瀕しているのか。
この国は、この都市は、文化にこれほど価値を見いだしていないのか。
そう思うと、絶望が深まるばかりではないか。
しかし、何度でも繰り返し、あなたに感謝の言葉を捧げよう。
あなたの喪失に心をひどく痛める、おおぜいの、ものづくり人は、伝い手は、
あなたが育て、守ってきてくれた思いを忘れぬように抱いて、
あの空間の空気、光、においを、ときに記憶によびさまして、
意味のあるなにものかを、作り、伝えつづけようとするだろう。
涙が、とまらない。
ごめんなさい。
そして、ほんとうに、ありがとう。
2004.07.17 - 03:00 AM |固定リンク|コメント (2)
参照よ永遠に
blogには「ニュースサイト」と呼ばれる一面があります。プロの記者や評論家ではない人たちが、いろんなニュースの論評を載せることを主眼としたblogやエントリーは、新しいメディアとしての価値を生み出しつつあります。
ぼくもここでニュースから話題をとりあげることがよくありますけれど、その際に、元記事を引用すべきか、リンクですますか、をいつも悩みながら書いています。
アクセシブルにするとともに集中させ、同じ情報が複数の場所に存在しないようにするというのが、情報を扱いやすくするための基本だと思っています。
したがって、ぼくがblogでニュース記事をとりあげるときには、本来、リンクですませたいのです。
しかしながら、今の日本の新聞社などのニュースは、日にちがたったものから削除されていってしまいます。
そのためにやむを得ず引用をしているのが現状です。
2004.10.02 - 07:14 PM |固定リンク|コメント (2)
情報の集約と提供のしかた——新潟がんばれ
新潟中越地震について、現地に必要な情報、救援やボランティアをしたいという側に必要な情報がちゃんと集約されていないのではないかということが、気になっていました。
しかし、2ちゃんねるの有志がwikiで支援サイトを作っていたことを、今日初めて知りました。
新潟中越地震 被災者救援本部@2ch Wiki
これは、しっかりしたものです。被災者にも、被災地の情報を様々な理由で知りたいという人にも、それぞれに有益な情報がきちんと整理され網羅されているようです。すばらしい。
2ちゃんねるにwebからトップページを経由して入っていれば、とっくに気づいていた(トップページに「新潟ガンガレ、超ガンガレ」というリンクがあり、またいつもの壷の絵に代わり、モナーがカイロを差し出しているイラストになっている)のですが、最近は専用ブラウザ(CocoMonar[Mac]、ギコナビ[Win]、iMona[iMode]等)でしかアクセスしないのと、地震関連スレッドをのぞいてみていなかったので、全然気づいていませんでした。
複数の有志がだれでも、自主的に、情報の提供と、情報の整理に参加できるという点で、このようなときに使うツールとしてwikiは現状最も適したツールでしょう。
当然の事ながら、携帯でのアクセスも考慮して作られているし。
イラク人質事件についての悪辣なメッセージや画像リンクに辟易している直後だけに、同じ場を使ったこのような活動にはホッとします。
被災地の人は、天候の悪さやこれからの冬の寒さを前にして、たいへんなことだと想うけれど、本当にがんばってほしい。
2004.11.05 - 01:25 AM |固定リンク|コメント (0)
高機能の使い勝手
ここ1年あまり、ずっと悩みながら控えていたHDD/DVDレコーダーの購入に、ついに踏み切りました。
そろそろ、アナログ放送向けのレコーダーとしての機能は安定期に入ってきたと思えることと、ハードディスクの容量がそれなりに大きくなってきたことによるところが大きいでしょう。
デジタル放送になるとまた様々なサービスと機能の連携が考えられますが、デジタル放送の雲行きはまだ混沌としているので、今の時点でそれを考慮に入れないほうがよいと思います。
さて、実際に使用しはじめてみると、機能への不満はあまりありませんが、操作性にはかなり問題があり、大いに不満です。
ぼくが買った製品がダメで、「買ってはいけない」、などと言いたいわけではないので、ここではメーカー/製品名は書きません。しかしできたら改めての機会に、より具体的な形で、使い勝手の批評をしたいと思っています(その際には製品名も明記することになるでしょう)。
操作上の最大の問題点は、リモコンの目的が、画面とのインタラクションではなく、コマンドを送ることである点にあります。言葉を換えると、「画面をリモコンで操作する」のではなく、「リモコンでの操作を画面に反映させる」形になっている点です。
この違いは微妙なようで、非常に大きいものです。まったく逆の方向性と言ってもいいでしょう。作り手は、この違いをわかっていて選択しているのではなく、この違いに気づかず、意識していない可能性が高い。
HDD/DVDレコーダーは、テレビの画面を使ったインタラクションができるという、ほかの家電にはない大きなメリットを持っています。電子レンジなどのように、せいぜい小さな液晶をつけるのが関の山である家電とはその点が大きく違いますが、その利点が十分に生かされていません。
リモコンは、常時持ち歩くケイタイのようには、大きさの制限をそれほど受けないので、手に持つのが負担でない程度に大きくし、そこに配置できるだけのボタンを配置していますが、この点がインターフェース設計においての「甘え」を生んでしまっているように思います。これはこのHDD/DVDレコーダーに限らず、昨今のリモコンのどれにも言えることですが。
マニュアルは厚く、かつてこれほど厚いマニュアルの家電を持ったことはありません。プロ向けアプリケーションソフト並です。でも、機能が多いのでマニュアルが厚くなるのはしかたがないことです。
しかし、この厚いマニュアルを見ないと操作できないことは、しかたがないとは言えないでしょう。機能が多いからこそ、マニュアルを見ないでも操作可能な使い勝手が強く求められます。いちいちマニュアルを見なければならないとなると、面倒になってしまい、せっかくの機能を使わなくなってしまいます。機能が大きな売りとなる商品では、競争力を大幅に削ぐ結果になってしまいかねないでしょう。
機能の高度さと、使い方の難しさは、比例するものではありません。
「機械オンチ」(この言葉が意味する範囲は人によって違いすぎ、もはや意味がないとさえ言えますが)の人が自らを卑下する必要はまったくありません。
「機械オンチ」を「オンチ」たらしめているのは「機械」であって、使う側の問題ではありません。
F1や自立歩行ロボットのような、人類最先端の技術の粋を自動車に反映したからといって、その自動車の使い勝手が悪くなるわけではありません。むしろよくなるはずです。
コンピュータがマウスとメニューとウインドウのシステムを導入していなかったならば、これほど多くの人が多くて複雑な機能を使えるようにはならなかったでしょう。
よい使い勝手こそが、高機能化を促すのです。
高度な機能を使える技術を生み出していながら、それを「使えない」状態にしてしまっているのは、作る側の責任ですが、それによってみずからの首を絞めてしまうことでもあります。
もったいないことこの上ない。
使う側、作る側、両方にとって不幸なことなので、そこをなんとかしたいと思うばかりです。
2004.12.29 - 10:06 AM |固定リンク|コメント (0)
類語辞典搭載 電子辞書しらべ
電子辞書がほしい、と思いながらも、販売店の売り場にいくと、その種類の多さに選びようがなく、またその場では詳細な情報による検討もできないのでつい敬遠していました。
ぼくの場合、最近特に日本語の類語辞典が欲しいと思うことが多いので、それが搭載されている機種について、とりあえずサイトでわかることを調べてみることにしました。
現状、電子辞書を出しているのはカシオ、キヤノン、シャープ、セイコーインスツル(SII)、ソニーの5社。
そのうち、キヤノンとソニーは、日本語の類語辞典を搭載している機種を出していません。
以下詳細。
2005.01.10 - 03:17 PM |固定リンク|コメント (1)
情報不伝達による過失致死・20万人
インド洋大津波が起きてから一ヶ月あまりがたちました。
人類の歴史に残る災害の中でも、これほどの規模の災害はなかったのではないでしょうか。
ことにこの災害においては、情報を伝えることを仕事としているぼくの心は強く痛みます。
「情報が伝わらなかったことによって膨大な死がもたらされてしまった」からです。
地球上に情報網がはりめぐらされているこの時代において、地震直後でなく、数時間を経て津波が襲った地域でも何万人という被害が出てしまったことには、なんのための情報網だろうか、と思わざるを得ません。
国家間の地震・津波情報網ができていなかったのは国家やその国民の責任ですが、そのようなシステムがなくても、すでにこれほどインターネットが普及している今、個人の情報発信でも何かができたのではないか、と考えると、本当に心が痛い。
情報やインターネットに関わる者としてだけでなく、日本人としてもまた、心が痛みます。
「TSUNAMI」という言葉が英語になっているように、世界の中でもその恐ろしさをよく経験し、科学的にも知識を蓄えていた日本の国や科学界が何もできなかったこと、しなかったこと。
Nipponia Nipponという名の鳥を絶滅させてしまったことと同様に、ぼくたちはこのことを恥としなければいけない、と思います。
また、これは言っても詮無いことだとはわかっていることなのですが、地形上のこと。地震からの津波が各地にどのように伝わったのかのシミュレーション[aist.go.jp]を見ると一目瞭然、インドシナ半島、マレー半島、スマトラ島と連なる半島や島々が津波に襲われたことにより、太平洋への津波の防波堤になったこと、です。日本を含む太平洋に面する国々に津波がもたらされなかったのは、防波堤となって被害を受けた場所があるからこそでしょう。
何よりも、そしてまたしても、心ない首相が見事に象徴する、この国全体を覆う心のなさが気になります。
ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでは恒例であるラデツキー行進曲の演奏を止めるという気遣いをするなど、世界にはこれを他国の出来事ではなく、「われわれ」人類が受けたことという意識を持つ国や人々は少なくありません。
ですが上記のような日本および日本人の責任は言わずもがな、日本人の被害数を強調した報道や、地震・津波直後であった年末年始の番組編成・内容にほとんど何の変更もされなかったことは、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とうたう憲法を持ち、国際貢献を声高に叫んでいるはずの国の国民(ぼくを含む)がほんとうは何を考え、感じているのか(いないのか)を如実に示しています。
2005.01.29 - 05:33 PM |固定リンク|コメント (0)
さよなら、茨木のり子さん
ことばが、どんどんと軽くなっていく……と感じるこの時代、ことばにきちんと重みを持たせ、それを担ってきた人がまたひとりいなくなってしまったという報せはつらいものです。
石垣りんさんが亡くなられてまだ一年余りですが、もうひとりの尊敬する詩人であった茨木さんも、旅立たれてしまったこと、今日知りました。
やわらかい微笑みを浮かべながら、ものを見つめ、耳をかたむけ、こころを研ぎ澄まし、思いをことばにしてつたえてゆく。
背筋の伸びたその姿勢を胸に、ぼくもまた、じぶんの二本足で立ち、生きていきます。ありがとう。
・茨木のり子さんの本[amazon.co.jp]
2006.02.21 - 11:24 PM |固定リンク|コメント (0)
「わかった」が相変わらずわからない
ZAKZAKの記事[zakzak.co.jp]
「堀江メール」問題で、永田寿康衆院議員の国会質問を後押しした民主党の野田佳彦前国対委員長が「いろいろあったが、墓場まで持っていくしかない」と同僚議員に漏らしていたことが15日、分かった。(中略)野田氏が「墓場まで…」と固く口を閉ざす中身とは-。永田町で波紋を広げている。
野田氏の“墓場発言”を明らかにしたのは、耐震強度偽装事件の追及で一躍有名になった民主党の馬淵澄夫衆院議員。
自身のHPにある「不易塾日記」の3月8日号に、平成18年度予算が衆院通過(2日)した夜、野田氏を、東京・神楽坂のバーに連れ出した話として、こう記している。(文字強調引用者)
8日にblogに書かれたことが、15日に「分かった」んですか。はー。一週間もたたないとわからんのですか。んで、いったい誰が「分かった」んですかね。
「と同僚議員にもらしていた。」と書くんじゃあいけないんですか。まったくわからん。
関連エントリー
2006.03.16 - 01:04 PM |固定リンク|コメント (0)
偽りの中にある真実
最近、RSSブラウザで読むサイトが多すぎなので整理しないとと思っています。
しかしぜったいはずせないのがここ。いつ紹介しようかと思っていたんですが。
ボーガスニュース
http://bogusnews.seesaa.net/
このセンスは一流です。商業雑誌/新聞に載れば人気コーナーになるのうけあいだけど、でもどこも怖がって載せないかも。
内容もタイムリーでかつ的確な批評。でなおかつ面白い。
広告の選択もすばらしい。記事と広告の組み合わせでこのような面白さを出すという独創性は、すぐれたセンスあってこそ。
今日の「オピニオン」にはやられた。どうしてガチな記事を載せたんだろうと思ってしまった。
よくもまあ毎日こんな内容が思いつくもんだ。
2006.09.11 - 02:12 PM |固定リンク|コメント (0)
D903i ファーストインプレッション
前回の機種変更から3年あまり。それまでは1年おきぐらいには変更していたので、ひさしぶりです。
前機種はSH505i。MovaからようやくFOMAになりました。
選択の決め手は、ホイール(ダイアル)状の「スピードセレクタ」でした。iPodのスクロールホイールと同様に、くるくるまわるインターフェースで、上下左右のボタンにもなっており、中央が選択キーになっているのもスクロールホイールといっしょ。
このスピードセレクタが採用されたDシリーズは903iで3代目でしょうか。採用されたときから気になっていました。
スピードセレクタは使い勝手を向上させているだろう、それがどのようにされているか、というのが興味であり期待であったのです。
が……残念な結果です。
つまり、スピードセレクタはあまり使い勝手の向上に寄与していない、と感じました。
この要因の根本は、単に「上下左右の十字キーでできることをホイールでもできるようにした」という以上のものではない、その設計思想にあると思います。
ホイールでしかできないこと、ホイールだからこそキーよりもうまくできることが、特にないのです。
メニューを選ぶときや画面をスクロールさせるときなど、キーをくりかえし押すよりも多少は楽ですが、それが「多少」になってしまっているのは、ホイールの物理的な作りと、その反応のしかたが影響しています。簡単に言えば、回していて、あまり気持ちよくない。
要するに、ホイールという新しいインターフェースを導入することで、キーだけでは実現できない使いやすさを提供しようという考えがあまりなく、それがソフトウェアにもハードウェアにも表れています。
圧倒的な使い勝手を作るほどではないにしろ、ないよりは使いやすくなるだろう、という考え方でもそれはそれでいいのです。
が、しかし、同じことをする選択肢を増やせば、自動的に使い勝手がよくなるわけではありません。
むしろ選択肢が増えることでユーザーに迷いを作ったり、どちらの選択肢でも使えるようにするために、どちらか一方(もしくは両方)の選択肢の使い勝手が逆にマイナスされたりということが起きるからです。
まあ、期待度が高かった分、がっかりもあるのですが、それほどひどいわけではありません。
現在のケイタイの使い勝手は、どの機種においても、もっともっと良くできる余地があると思いますが、そうした平均的な機種のひとつであると言えます。
ただ、本体の見た目のすっきり感はけっこう気に入っています。D901iやD902iよりもすっきりしましたし、とてもいい感じです。
前のSH505iよりも厚さも薄くなり、平面的でもあるので、その点もうれしい。
機能的には、FMラジオとGPS、簡単な辞書がついているのが個人的には○。
2006.11.16 - 08:25 AM |固定リンク|コメント (4)
参照よ永遠に2
エントリー「参照よ永遠に」に元新聞社勤務の友人からコメントをもらったので(感謝!)、改めてもうすこし詳しく述べてみます。コメントで書こうと思ったんですが長くなったので別エントリーにしました。
もらったコメントは、まとめさせてもらえれば「情報はタダではない」ということでした。
しかしながら、ぼくがエントリー「参照よ永遠に」でとりあげたテーマにおいては、情報がタダかどうかには関係ないのです。
有料でもいいんです。
永続的なリンクが維持できる有料なしくみが一方にあるのなら、タダだからできないのだ、ということになりますが、情報発信側がお金を払って記事情報を転載したり参照したりする方法も、古い記事へのリンクをたどって読もうとする情報受信側がお金を払いさえすれば読むことができるという方法も、用意されていません(また、新しい記事が完全に無料だとも言えません※)。
そしてこれは、有料サイトで検索すればよい、というものではありません。
記事タイトルなどで検索して見つけても、それがもともと批評者の参照したものと同一のものであるかどうかがわからないからです。
例えば複数のメディアに掲載された作品を批評する場合、どのメディアに掲載されたものなのかを明示する必要があります。それは同じ作品でもメディアによって内容が異なることがよくあるからです。つまり、批評する際には、批評対象そのものを指し示すことができ、その対象そのものを第三者が(たとえ有料でも)直接参照できる必要があるわけです。
著作権法上許されている範囲で引用をすることはできますが、それが恣意的な引用でないかどうかを第三者が検証する術がなくては、引用の正当性、ひいてはその引用をする目的である批評や論評の正当性を証明することができません。
引用の要件として「引用元を明記する」ということがありますが、その引用元を指し示したくてもできず、したがって正しい引用さえできない、という点が問題なのです。
たとえば本や雑誌に掲載された文章について批評するときは、「誰々が何年に書いた何という論文」とか、「ISBNの何番」あるいは「何々出版社のなんとかという書名」の、「何ページ何行目から何行目」というふうに参照情報(リンク)を記せば、たいていの場合はその元情報にアクセスする方法は維持されます。その本を書店で買うか、図書館でタダで読むか、だれかに借りるか、いずれにせよ第三者が、批評者の指し示すオリジナルの情報に直接アクセスする方法があるわけです。
少なくとも、批評対象は物理的に固定されています。
しかしデジタルネットワーク上の情報は、物理的な存在でないがゆえに、情報のありかと情報そのものを意識的に残さない限り、同一のものにアクセスすることができなくなります。
これは結局、一度発信された情報には永続的なリンク、すなわち永続的なURL(あるいはURIがあり、対象への何らかのアクセス方法があること)が維持されることが必要だということです。また同時に、その情報が参照された時点のものと同一性を保持していることを保証するしくみも必要です。
こうした、オリジナル情報のユニーク化と固定化、そしてそれへのアクセス方法の維持は、特に新聞のように、様々な議論や批評の元となる材料としての情報を提供するメディアでは、非常に重要だと考えます。
※現状過去の記事は有料で提供しているから、いつまでも記事を無料では提供できない、のか
新聞のサイトでは、新しい記事は無料であり、古い記事は有料かというと、それはウェブの読者から見たコストにすぎないでしょう。
例えばウェブでの最新のニュース記事は、完全にタダで提供しているのではなく、ウェブの読者からお金をとっていないだけです。ペーパーの新聞や、ケイタイでの購読ではお金をとっていますし、ウェブでも広告主からお金をとっています。
それに、過去記事を有料でのみ公開して得られる利益は、果たして過去記事に広告をつけて表示するよりも大きな差のある利益になるんでしょうか。
エントリー「参照よ永遠に」の末尾に書いたように、メディア企業が「情報の独り占めのみが利益の元」と考えていることに問題があります。このような姿勢は、読者の利益を損ねるだけでなく、ことにこのネットワーク社会においては、結果的に著作権者の利益をも損ねることになります。
つまりメディア企業が利益を得るべきなのは当然として、しかしその利益獲得のしかたが間違っている、ということです。
より根本的には、新聞社をはじめとするメディア企業が「提供する情報とは何か」、そしてその「提供は何のためなのか」ということへの深慮が失われていることの問題でしょう。
それをせずに、既存の利益(総合的・長期的に見たら利益でさえないかもしれないもの)にとらわれすぎてしまっています。
情報の取得・編集・提供に対し、どのようにコストをかけ、どのように利益を得るのかということは、情報そのものと、ネットワークについての深い知識と考察に基づいて、試みを繰り返しながら解を探していく必要があります。
これは、別の視点(情報アーキテクチャの視点)から見れば、ひとつの記事にどのような情報構造を持たせ、記事間の構造をどのように構築し、そしてそれらにどのようにアクセスできるようにするか、という問題とも言えます。
こうしたことはたいへんな作業ですが、情報の発信者にとっても、受信者にとっても、今、非常に重要なテーマです(ちなみにぼく個人的には、非常に非常に面白いテーマです)。
しかしながら……。新聞をはじめとする日本のメディア企業は、この必要性についてほんとうに真剣に取り組もうとしているとは思えない節があります。
ここには、利益にかかわらず「過去提供した情報に自由にアクセスしてもらっては都合が悪い」という、本質的でさらに根の深い問題が介在していると考えます。これはまた別の話、ですが、こちらもまたとてもとても重要なテーマです。
2007.01.07 - 09:44 AM |固定リンク|コメント (2)
これなら許せるネコ娘
タイトルに使う言葉、そしてその言葉ときちんとリンクした内容の重要性を、メールから学ぶことは多いです。
スパムにはタイトル(件名)に工夫したものが少なくないですが、だいたい中身がともなっていない。
いや、スパムの中身に充実度を求めてもしかたないんだけどね。
しかしこんなスパムは来ても許す。ぼく的には、なかなかうまいコピーだと思いました。
Subject: 【緊急】ネコ娘が放し飼いになってます! Date: 2007年10月13日 22:51:12:JST今日、道を歩いていて一瞬寂しい気持ちがよぎりませんでした?
すれちがった女性の香りに思わず振り返ってみたり、
なんとなく空の高さを感じてしまったり・・・。
そうなのですよ。もう、すっかり「秋」なんです。
そんな秋の余韻に浸ってるうちに、今度は冬到来!
あっという間に「クリスマス」そして「お正月」ですよ。
来年のお正月もコタツの中でネコと寝正月ですか!?
どうせ一緒に寝るならネコ娘でしょ。あなたのネコ娘はココに生息してます!
http://xxxxxxxxxxxすでに彼女達は動き始めていますよ。
あなたはまだ動かなくていいのですか?
去年のクリスマスイブ、明石○サンタに笑いながら心は涙していた貴方!
今年は絶対に繰り返さないでくださいね。
http://xxxxxxxxxx
(リンクは削除しました)
「ネコ娘」ってどんな娘かわからんけれど、「ネコ娘が放し飼いになっています」は、悪くないねえ。よく考えると「放し飼い」って、だれかに飼われてるんじゃないの……とか、つっこむところはあるんですが。
個人的には、コタツでネコと寝正月も、明石屋サンタで大笑いのクリスマスも、パートナーとともにいるのと同様に、かなりしあわせな部類に入るので誘導力は弱いのですが、「読ませる」という点では、このセンス好感度高いです。