参照よ永遠に2

エントリー「参照よ永遠に」に元新聞社勤務の友人からコメントをもらったので(感謝!)、改めてもうすこし詳しく述べてみます。コメントで書こうと思ったんですが長くなったので別エントリーにしました。

もらったコメントは、まとめさせてもらえれば「情報はタダではない」ということでした。
しかしながら、ぼくがエントリー「参照よ永遠に」でとりあげたテーマにおいては、情報がタダかどうかには関係ないのです。

有料でもいいんです。
永続的なリンクが維持できる有料なしくみが一方にあるのなら、タダだからできないのだ、ということになりますが、情報発信側がお金を払って記事情報を転載したり参照したりする方法も、古い記事へのリンクをたどって読もうとする情報受信側がお金を払いさえすれば読むことができるという方法も、用意されていません(また、新しい記事が完全に無料だとも言えません)。

そしてこれは、有料サイトで検索すればよい、というものではありません。
記事タイトルなどで検索して見つけても、それがもともと批評者の参照したものと同一のものであるかどうかがわからないからです。
例えば複数のメディアに掲載された作品を批評する場合、どのメディアに掲載されたものなのかを明示する必要があります。それは同じ作品でもメディアによって内容が異なることがよくあるからです。つまり、批評する際には、批評対象そのものを指し示すことができ、その対象そのものを第三者が(たとえ有料でも)直接参照できる必要があるわけです。

著作権法上許されている範囲で引用をすることはできますが、それが恣意的な引用でないかどうかを第三者が検証する術がなくては、引用の正当性、ひいてはその引用をする目的である批評や論評の正当性を証明することができません。
引用の要件として「引用元を明記する」ということがありますが、その引用元を指し示したくてもできず、したがって正しい引用さえできない、という点が問題なのです。


たとえば本や雑誌に掲載された文章について批評するときは、「誰々が何年に書いた何という論文」とか、「ISBNの何番」あるいは「何々出版社のなんとかという書名」の、「何ページ何行目から何行目」というふうに参照情報(リンク)を記せば、たいていの場合はその元情報にアクセスする方法は維持されます。その本を書店で買うか、図書館でタダで読むか、だれかに借りるか、いずれにせよ第三者が、批評者の指し示すオリジナルの情報に直接アクセスする方法があるわけです。
少なくとも、批評対象は物理的に固定されています。
しかしデジタルネットワーク上の情報は、物理的な存在でないがゆえに、情報のありかと情報そのものを意識的に残さない限り、同一のものにアクセスすることができなくなります。


これは結局、一度発信された情報には永続的なリンク、すなわち永続的なURL(あるいはURIがあり、対象への何らかのアクセス方法があること)が維持されることが必要だということです。また同時に、その情報が参照された時点のものと同一性を保持していることを保証するしくみも必要です。

こうした、オリジナル情報のユニーク化と固定化、そしてそれへのアクセス方法の維持は、特に新聞のように、様々な議論や批評の元となる材料としての情報を提供するメディアでは、非常に重要だと考えます。


※現状過去の記事は有料で提供しているから、いつまでも記事を無料では提供できない、のか

新聞のサイトでは、新しい記事は無料であり、古い記事は有料かというと、それはウェブの読者から見たコストにすぎないでしょう。

例えばウェブでの最新のニュース記事は、完全にタダで提供しているのではなく、ウェブの読者からお金をとっていないだけです。ペーパーの新聞や、ケイタイでの購読ではお金をとっていますし、ウェブでも広告主からお金をとっています。
それに、過去記事を有料でのみ公開して得られる利益は、果たして過去記事に広告をつけて表示するよりも大きな差のある利益になるんでしょうか。

エントリー「参照よ永遠に」の末尾に書いたように、メディア企業が「情報の独り占めのみが利益の元」と考えていることに問題があります。このような姿勢は、読者の利益を損ねるだけでなく、ことにこのネットワーク社会においては、結果的に著作権者の利益をも損ねることになります。
つまりメディア企業が利益を得るべきなのは当然として、しかしその利益獲得のしかたが間違っている、ということです。

より根本的には、新聞社をはじめとするメディア企業が「提供する情報とは何か」、そしてその「提供は何のためなのか」ということへの深慮が失われていることの問題でしょう。
それをせずに、既存の利益(総合的・長期的に見たら利益でさえないかもしれないもの)にとらわれすぎてしまっています。

情報の取得・編集・提供に対し、どのようにコストをかけ、どのように利益を得るのかということは、情報そのものと、ネットワークについての深い知識と考察に基づいて、試みを繰り返しながら解を探していく必要があります。
これは、別の視点(情報アーキテクチャの視点)から見れば、ひとつの記事にどのような情報構造を持たせ、記事間の構造をどのように構築し、そしてそれらにどのようにアクセスできるようにするか、という問題とも言えます。
こうしたことはたいへんな作業ですが、情報の発信者にとっても、受信者にとっても、今、非常に重要なテーマです(ちなみにぼく個人的には、非常に非常に面白いテーマです)。

しかしながら……。新聞をはじめとする日本のメディア企業は、この必要性についてほんとうに真剣に取り組もうとしているとは思えない節があります。
ここには、利益にかかわらず「過去提供した情報に自由にアクセスしてもらっては都合が悪い」という、本質的でさらに根の深い問題が介在していると考えます。これはまた別の話、ですが、こちらもまたとてもとても重要なテーマです。

[編集・情報・ことば]
2007.01.07 - 09:44 AM |
風のような自由のために | やはりさすがアップル。iPhoneお見事。

コメント

» 京塚: ( 2007.01.09 - 08:45 PM | 固定リンク)

すごく長いので(それはそれでおもしろかったよ!)、気付いたことを、少し。

ブログならブログで記事を引用した場合、その元がなくなるのが困るということがもともとのお話しであったように思います。もちろん、それは今回書いてもらえたような「情報アーキテクチャ」につながるのかもしれませんが。ここらへんの前提がおかしければ、教えてくださいね。

で、上のような前提で、有料でもいいんだということであれば、新聞社は有料サイトで記事は読めます。なので、有料サイトを見られる人なら、引用部分を確認できるんですよ。だから、有料でもいいということになると、参照は永遠になるのではないかなぁと思うわけです。

ぼくはそうではなくて、誰でも、いつでも参照URLをたどれば、元情報にたどりつけないことを憂いているのだろうと思ったので、情報はタダではないのでは?と疑問をつけたわけです。

情報アーキテクチャということであれば、またお話しは違ってきます。情報とは何か、媒体とは何かあたりについてもはっきりしていませんし、それにデジタル化がどのように作用したのか、しようとしているのかも考えないといけないかなぁと思います。

» ayumu: ( 2007.01.09 - 10:01 PM | 固定リンク)

はい、そのような前提です。
その上で、有料での提供があることもふまえ、「有料でなら読める」だけではだめだ、と書いたつもりなんですが……。

わかりにくかったかもしれませんが、簡単に言えば、「リンクが切れる」ことが問題なのです。
無料→有料の際に情報は別の場所に移動し、リンク切れになります。せめて有料サイトに移された記事への誘導リンクがあればいいですが、それもありませんし、有料サイトの中にある記事が、無料で公開されていた記事と同一であるかどうかもわかりません。

単行本から引用したのに、その本があるとき突然この世からすべて消滅し、別途文庫本になっているようなものです。
版が違えば、それは「引用元」とは違うものですよね。

もちろんたいていの場合は同じものだとしてすんでしまいますが、著作者の著作権を守りつつ、批評や論評の自由や価値も守るという立場からは、とうてい同じとは言えません。

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