知るべき理由

長崎の少女の事件は、胸が苦しくなるような事件です。
あまりにもいたたまれない(被害者側だけでなく、加害者側に対してもまた)話です。

ただ……事件直後の報道で知らさせることの多くは、推測やごくごく断片的な事実でしかなく、それで何かを考えたり判断することの無意味さと危険さを、オウムをはじめとするたくさんの事件でぼくたちは経験しているはずです。

ぼくはこの事件の報道を読んだり見たりしないようにしています。
何年かして、ちゃんとしたジャーナリストが本のような形でまとめたときには、読むかもしれません。
しかしそれでもなお、彼女たちになにが起きたのか、それがほんとうにわかるものではないという気がします。

こうした事件ばかりでなく、毎日のようにおきる殺人、強盗、火事、事故、盗難、強姦、痴漢などなど、さまざまな事件が報道されていますが、そのような報道を見るにつけ、これは何のために報道しているのだろうということを考えます。さらに言えば、これらのことを、報道する必要があるのだろうか、と。

事件から教訓を得て、同じことがおきないようにする、というのが一番まっとうな理由でしょうが、教訓を得るためには正確な情報や詳細な分析が必要で、また綿密な対策も同様に提示されなければならないはずです。現在テレビや新聞で報道されている事件のほとんどが、こうした条件を満たしていないことは、ちょっと考えてみれば明らかです。

事件が報じられることによって、「事件を起こすとこういうことになるのだぞ」という見せしめ=予防効果はあるでしょう。しかしそれも、仮にも法治国家であるならば、報道自体によって断罪されることがあってはならず、まして容疑者の段階ではなおさらです。裁判によって裁かれた後、こういう罪はこういうふうに罰せられる、という報道によってのみ、予防効果を生み出すようにしなければならないはずです。

あるいは、事件がまだ継続中で、それを知らされないことによって被害が拡大するおそれがある、という理由もありえるでしょう。しかしそうした被害が全国的におきると予測されるような大事件は、災害や原発事故など広範囲にわたるものなどで、そうそうあることではありません。日頃おきている殺人や強盗は、ある限られた地域への警告は必要でしょうが、たとえば九州でおきたことを北海道で警告する意味はほとんどありません。

そして警告するのであれば、どこで誰がという内容などよりも、それがどのようにして起こり、だから、どのようにして防げばよいか、ということこそが内容にならなければなりません。

もちろん、隠蔽しろというのではありません。
ただ、「知る権利」という言葉がありますが、権利はあっても、では必要はあるのだろうか、と思うのです。
個々の報道には、報道することのプラス面とマイナス面が常にあるでしょう。それを差し引きした上で、プラス面が多い、ということを確認、もしくは想定して、報道がされているのでしょうか。

ことに今回のような事件の場合、報道されることのプラス面よりもはるかにマイナス面の方が大きいのではないか、と思えます。
これが、「変質者が学校の帰りに子どもを襲った」というような事件であれば、子どもに防犯ベルを持たせるとか、送り迎えをするとか、対策のとりようがあります。
ですがあのような事件では、心に重いものを沈殿させるばかりで、どうしようもありません。ナイフを使わせないようにするとか、インターネットを使わせないようにするといったことで解決できる問題ではないでしょうし、そうするべきでもありません。

その一方で、全国の人、ことに同世代の子どもたちと、そうした子を持つ親に、いいようのないショックを与えているでしょう。そのダメージはいかほどであろうかと思うのです。

子どもに対して、知らせない、見せないほうがよい情報にフィルタをかける指導のしかたやしくみを、報道にもあてはめるべきでしょう。現実の事件は、架空の話が持つのとは比べものにならないほどの力があるはずです。バトロワをいくら制限して見せないようにしても、食卓で家族揃って見る7時のニュースで子どもによる子どもの殺人が報道されていては、意味がありません。

知る必要があり、知ろうと思ったときには、いつでも知ることができるようになっている、そのような形で「知る権利」が行使できればよく、知りたくないこと、知らない方がよいことまでが知らされてしまうことの問題を、報道でもちゃんと考えなくてはいけないはずです。

これはもちろん、報道する側の問題というよりも、むしろそれを見る側の問題でしょう。視聴率や部数に結びついているからこそ、報道機関は報道するのでしょうから。
のぞき見趣味や、他人の不幸を蜜の味とするがために「知る権利」を行使すべきではありません。

追記。
この前に書いた「死刑になりたいための犯罪」では、たまたまぼくが読んだ報道から考えたことを書きましたけれど、これも例えば何年かたってから知り得てもよいことです。
死刑というものを考えたいと思ったときに、「このような事件がかつてあった」と知らされれば十分で、その際にも、犯人や被害者が実名だったり特定できたりする必要はまったくありません。

[編集・情報・ことば]
2004.06.12 - 03:12 PM |
死刑になりたいための犯罪 | 『A2』にこの社会全体の恐ろしさを見る

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