『A2』にこの社会全体の恐ろしさを見る

ずっと見たいと思いながら、レンタルショップに行くといつも借りられていて見ることができなかった『A』および『A2』をようやく見ることができました。
森達也監督の、オウム真理教(宗教団体アーレフ)の内部に入り込んで撮影された映像をメインとしたドキュメンタリー映画です。
『A』は、若き広報部長を追い、『A2』は、各地での様々な住民運動とそれに対する団体側の対応を中心に追ったドキュメンタリー。いずれも2時間を超える作品で、どちらか一方を見るとしたら『A2』がよいでしょう。『A』を見ていなくても問題なく見ることができます。現在の日本の社会が抱えるようになっている様々な問題がより深く浮き彫りになっています。

ぼくは特に『A2』を見て、最近抱き続けている不安がますます増大しました。

この映画の映像に表れる信者側も、排斥運動をすすめる住民側も、立場に関わらず多くの人が、他者の思想や立場に対する想像力の欠如をもととした、恐ろしいまでの思考停止の様相を呈しています。
例えば、少なくとも映像に出てくる住民運動では、運動側は信者と会話を交わすことを完全に拒否し、少しでもそのようなことをする住民は運動しているとは見なされません。
そもそも「オウムは出て行け!」とする単純な排斥運動は、「自分の近くにさえいなければよい」という身勝手さ(出て行った先の場所のことは考えていない)と、宗教団体が依然として抱えているかもしれない問題に蓋をしてしまう、もしくは問題を増幅してしまうという点で、ぼくは賛成できません。
この映画の中でほとんど唯一、理性的な判断を元にした運動を展開していたのは、なんと右翼民族派の団体でした。彼らは「出て行けと言っても問題は解決しない」として、賠償責任を問うていました。それにしても、右翼団体の、肩で風切って歩くような怖そうなオジサンたちが、集団でシュプレヒコールをあげながらデモをするという、左翼や市民団体かと見まごうばかりの映像には驚きました。少なくとも、ここに登場していた右翼団体の方の発言は、松本サリン事件被害者の河野義行さんの発言とともに、この映画の中ではもっともまともだと感じられるものでした。

どうみても硬直化しているにもかかわらず、千人の規模を動員してしまう住民運動を見ていると、「あいつは魔女だから殺してもよいのだ」とした中世の出来事が思い起こされてしまいます。
かといって、仲良くなってしまうことで情が移り、ご近所さんとしてただ受け入れてしまう人たちにも疑問があります。しかしそれでも、頭から「相容れないモノ」として会話さえ拒否するよりはずっと豊かな感性を持っていると思います。

また、新聞の報道のいい加減さも、この映画で描かれるもうひとつのテーマです。はじめから結論ありきの記事によって、事実ではないことが平然と報道されることに、信者は敵対心を抱くでしょうし、それはかえって彼らを危険な方向に追いつめます。誰が見ても明らかな意図的誤りを報道が犯してしまうことで、彼らは自己の「正しさ」の証明としてしまうでしょう。
報道の意図的誤りについては、運動側である右翼の人もまた、同様に指摘していたのが印象的でした。
こうしたことが象徴的に描かれていたのが、かつて大学のサークルで友人同士であった信者と新聞記者の会話のシーンです。
「おまえがなぜそんなウソばかり書く仕事をしているのかわからない」という問いに、記者である友人は答えず、「ぼくもなぜおまえが信者を続けるのかわからない」という言葉で返します。それぞれの「わからなさ」を問われた側もまた、問いに対する答えを有してはいず、自己のわからなさを不問にしながら他者のわからなさを問うことで安心しているように思えました。

まったく別に立場にいるようにみえ、本人たちもお互いにまったく相容れないと考えているであろう、信者と、排斥運動をする住民と、意図的誤報を流す報道者は、実際にはまったく同じように、あえて他者への理解を拒否し、自己を正当化することにのみ躍起になっているようです。
グローバル化がすすみ、価値観が多様化している人間社会において、そのような流れにいわれのない不安を抱き、そのためにひたすらそれを拒否し、抗しようとしているという点で、どの立場の人もぼくには「同じ」と見えました。

正しい認識と想像力を原動とする他者への理解、言い換えれば「やさしさ」を、この社会は(それを構成する多くの人は)かなぐり捨てて、幻想の産物たる何モノかを守ろうとしているようです。
なるほどそのような国民は、やはり冷血で、やさしさなど微塵も持たない宰相を抱いているわけです。
不安と恐ろしさは、増殖していくばかりです。

[政治・国際・社会, 映画・演劇・テレビ]
2004.06.16 - 08:00 PM |
知るべき理由 | 青山ブックセンター追悼

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