疎ましさもまた
コンピュータやネットワークや、そのほか様々なテクノロジーには強い興味を持っていて、それが社会をどう変えていくか、変えていくべきかについて、いつも考えています。
けれど、心のどこかでは、そうした高度なテクノロジーなどなければいいのに、と思っているようなところがあります。
子どもの頃から今にいたるまで、繰り返し繰り返し夢想しているシーンがいくつかあります。
無人島にずっとひとりでいることになる、という状況。
江戸時代にタイムスリップする、という状況。
そこに予想される困難さや孤独を恐れつつ、しかしどこかで、そのようなことを考えるのが実に楽しいのです。特に深く考えるわけではなく、時間をもてあましているようなときに気づくとぼんやりそんな状況にいる自分を想像していたりします。
そしてまた、東京の街中を歩いているときによく想像するのは、そこから人間がまったくいなくなってしまう、という世界です。当然自分もそこにはいないのですが、人がいなくなった都心のビル街で、アスファルトの道路がひびわれてその間から草が生えだしたり、コンクリートの建物が蔦に覆われていったり、そんな風景を想像して、ぼくはとても清々しい気持ちになり、うれしささえ感じるのです。
ぼくはひょっとすると、テクノロジーそのものもさることながら、それを生み出した人間という存在そのものに対して、強い疎ましさを感じているのかもしれません。
しかしまた……そう感じることができるのは、ぼく自身が、感じるという能力を持つ人間という存在だから、であるのですよね。
感じること、考えることの楽しさ。
感じられること、考えられることのよろこび。
いくら疎ましくても、自分はこの宇宙を形作っている物質の一部であり、その認識は気が遠くなるほどの悠久の時間の中での、果てしない偶然の繰り返しの結果として生まれ、いまこの脳の中にあるのであり。
[日記・コラム・つぶやき]
2007.01.30 - 08:48 AM
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<やはりさすがアップル。iPhoneお見事。 | 池田晶子さんの思考が終わってしまった>
コメント
» 京塚: ( 2007.01.31 - 03:20 PM | 固定リンク)
テクノロジーにあたっちゃいましたね。湯あたり、暑気あたり、食あたり……。って、茶化すと叱られそうだけど、あんまり深くものを考えると、あたっちゃう。ま、「楽しい」ということだから、楽しい「あたり」かもね。何を書きたいのか、自分でもよく分からなくなったので、ここまで。しかし、暖かいね。