武士が鉄砲をもつとき

『新選組!』を見ていて、本筋や脚本には関係なく持った疑問がいくつかありました。
そのひとつは、「刀の時代はいったいいつ終わったんだ?」ということでした。

鳥羽伏見の戦いでは、薩長軍の鉄砲の威力の前に、刀で武装していた新選組を含む旧幕府軍があえなく敗退した、というイメージでした。戦いの後、土方歳三が「刀の時代は終わった、これからは銃だ」と言ったというシーンがありました(史実のようです)。
それを見ていて「おい、トシ、信長の鉄砲隊はそこから300年近く前だぞ?」と。

江戸時代というのは、武器や戦争のしかたの発達をまったく停滞(むしろ後退?)させるほど平和だったということなのだろうか、それにしても当時の反権力側がそうであるならともかく、権力側、しかもかつて、自らの天下を火器によってもたらされた徳川が……とかなり不思議でした。

ちょうど本屋で『歴史群像』という雑誌が眼に入り、めくっていたら鳥羽伏見の戦いの詳細を書いた記事が載っていたのでナイスタイミング。買いました。

一言で言えば鳥羽伏見の幕府敗退の原因は、幕府側の戦術の不備によるもののようです。
兵の数は幕府側は1万5000に比べ薩長は4000。鉄砲も、ドラマの印象とはうらはらに、幕府側も当然歩兵に薩長と同様のライフル銃を装備しており、一部には弾込めが二倍以上のスピードで出来る最新式の銃も配備していて薩長より進んでいましたし、大砲も両軍に備わっていました。
戦いの詳しい経過を読むと、戦術にはまったく疎い(シミュレーションウォーゲームは大好きだけど弱すぎな)ぼくでも、平地戦である鳥羽、市街戦である伏見、いずれでも、鉄砲と大砲による火力の性質に準じた戦術を見事に使った薩長軍と、そうではなかった旧幕府軍の差は歴然としているように見えます。
もうひとつは、旧幕府軍が、兵力の圧倒的差に油断していたことと、朝敵とされてしまうのを恐れたことにより、戦闘体制を整えるのが遅れたという理由でしょうか。即時戦闘態勢に入っていたら、また情勢は違ったのかもしれません。

同時代の西洋世界では、1854年のクリミア戦争から1870年のプロシャ-フランス(普仏)戦争あたりにおいて、やはり同様に、武器の急激な変化にともなって戦術も変化し続けており、その違いによって勝敗が決していたようですが、鳥羽伏見に端を発する戊辰戦争も、世界の兵器と戦術の変化に完全に同期した戦いだったのですね。
旧幕府軍は前時代の遺物としてではなく、時代にあわせた変化はしていたものの、変化の大きい時代であったが故に、薩長との微妙な差が、大きな結果の差を生んだということなのでしょう。

ここでようやく悟った土方が、その後どんな戦い方をしたのか、興味があります。先日の「そのとき歴史が動いた」で見た限りでは、1年後の函館ではすでに火器による戦い方を十分に理解しているように思えました。どこでどうやって覚えたのかな。観柳斎に横取りされた本、読み込んだのかな。
それとも、戦の基本というものは武器が変わっても変わらないもので、武器の性質をよく理解すれば、優れた指揮官は自然とそれに応じた戦術というものを考えられるということなのでしょうか。
それにしても、新選組は軍隊というよりも対テロ武装警察といった性質の組織ですから、戦い方の基本は相当違うはずだと思うのですけれどね。であるがゆえに、彼らは当時でもまだ刀で実力を発揮できていた部分があったのでしょうし。


この『歴史群像』には火縄銃をどうやって作ったかという記事もあり、これも今回の興味とつながっていて勉強になりました。
それにしても当時の日本、西洋のまったく新しい技術を吸収するスピードのなんと早いことか。もともとかなり優れた基礎技術と、それを支える技術者集団があったのですねえ。

この雑誌は初めて読みましたが、面白い。編集の力を感じます。
現代の政治を見るためにも、武器、戦略、戦術についての詳しい知識が必要だなと最近とみに強く感じているので、今後は毎号チェックしなきゃ。

※ただし巻末の小林源文のマンガ、コマは普通に右上から左下に進行するのに、説明文が横書きなので、実に読みにくい。絵もうまいし、それ以外に読みにくい理由は考えられないので、頻出する説明文を縦書きにするか、巻末であることを利用して、欧米風に左上から右下にコマを流して後ろのページから読ませるべきでしょうね。

[政治・国際・社会] tag:
2004.12.18 - 03:19 PM |
『新選組!』 その後。作家と俳優の想像力。 | NHKを応援します

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