人殺しという処罰

死刑には、反対の立場でいます。
肯定する納得できる理由が出てくれば、意見が変わるかもしれませんが、今のところ肯定する理由がないし、でてきそうにもない。

『現代思想』 2004/3号の特集が「死刑を考える」だったので買って読んでいます。

孫引きになりますが、本誌の記事「死刑・主権・赦し」(P.195)に、こうあります。

死刑の是非に関して、「今では論点がほぼ出つくし、ありとあらゆる理論的立場も出揃」い、その結果、死刑肯定論に根拠がないことが明らかになったにもかかわらず、肯定論者はそのことを認めず、今や「死刑論はもはや認識の問題ではなく、信仰告白の問題」になっているからである。
※「」内引用元は、田宮裕「犯罪と死刑」、荘子・大塚・平松編『刑罰の理論と現実』1972, P143

すでに30年前に論理的には結論が出ている。にもかかわらず、日本では死刑が存置そんちされ、それが当たり前のごとく国民は思っており、なおかつ死刑制度を望んでいる人が半数を超えています。

凶悪犯罪が増えているとされる(自らの権力を強くしたい側が発表していることなので、それは事実ではないかもしれない、とぼくは思っていますが)この世の中で、死刑を反対するよりも望む人のほうが増えているような気さえします。

たとえばオウム裁判では、国民の大半が松本被告に対して「死刑は当然」と思っているようです。
しかし、ぼくは彼の刑が最高裁で確定したとしても、やはり死刑には反対です。
※オウム裁判については、死刑制度に反対というだけでなく、捜査や審理がまったく十分ではないと感じることからも、松本被告を死刑にすべきではないと思っていますが、それはまた別な話。

どのような場合でも、どのような理由でも、人を殺すことをすべきではない。
それが一番シンプルな、死刑反対の理由です。

生物の歴史も、人類の歴史も、自分たちの命をいかにして長く残すかということに費やされてきたはずで、それが唯一最大のわれわれの存在理由と言ってもいいのではないか。
それに反することをすべきではない、と思うのです。

まだ全部ではないですが、『現代思想』の記事を、殺人被害者の家族の論文も含めて読んだかぎり、死刑を存置する理由を、ぼくはやはり見いだせないでいます。

また、日本の現在の死刑のあり方についても大いに疑問が出てきました。

  • 死刑が確定してから、執行するまでになぜ時間をおくのか。なぜすぐ執行しないのか。
  • 死刑が確定した人には弁護士は接見できず、家族も接見できないこともある。つまり死刑囚は外部の者と会う「権利」はなく、ただ「許可」されるだけで、その許可・不許可の理由もあきらかでないのはなぜか。

「裁判人制度」によって重大な犯罪に対する裁判には国民が参加するようになりそうです。
法の理解や、「権利」に対する理解度、それを踏まえた市民としての成熟度におそろしく不安のある日本で、裁判人という制度が実施されることもまた、ぼくにはたいへんな不安です。
なんでこんな制度が持ち出されたのか、知りたいと思っています。

[政治・国際・社会]
2004.03.20 - 06:09 PM |
木星 | どうでもいい血の話

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