失われてしまった思い

いつもぼくが抱く、情報の伝わり方や報道のされかた、といったものへの興味ではない、何か違うもののために、ぼくはここ数日のテレビ報道に心が奪われています。
なぜなのか、自分でもよくわからない。
ただ、あの大惨事に居合わせてしまったひとり一人の心の中に訪れるような気持ちで、報じられる名前や、立場や、その日の行動や、残した言葉から、そのとき、何を見、何を感じ、何を思ったのか……と、想像を繰り返しています。

仕事に行く途中、暖かな日差しの中、昼間少しすいた電車に乗って、あちこちで人が話をしていたり、携帯でメールをしたり、いねむりをしたり、読書をしたりする人たちの風景を見ていても、あの電車もまたこのようなありきたりの日常の中にいたはずだという思いにとらわれてしまいます。

あのとき。
車体が大きく傾き、折り重なって堕ちてくる他人の肩越しに、天を向いてしまっている車窓から一瞬の青い空を見たのが最期となった人がいたかもしれない。
つないでいた手が、ものすごい力で引き離されて、別々の場所で逝ってしまった恋人たちがいたかもしれない。
そして……自らのいのちばかりか、百人を越す人のいのちを奪うことになるなどきっと思いもせずに、ただ何かに追い立てられて必死になっていたのかもしれない、まだ若く経験の浅かった運転士は、100キロのスピードで猛然と迫りくるマンションの壁を目の前にした最期の瞬間、いったい何を思ったのでしょうか……。

[日記・コラム・つぶやき]
2005.04.28 - 10:55 PM |
朝のふたり | 信頼

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