田中康夫という長野県知事がいたこと

トップダウンの強引な手法、といいますが、そのような手法であれば、小泉首相のやり方のほうがはるかに強引です。抵抗勢力を一掃するほどには強引さが足りなかったということでしょうか。
一部の限られた企業への利益誘導がされず、地元財界はコントロールできるとふんで推薦したのに、コントロールできなかった、ということにみえます。

ガラス張りの知事室に象徴される、徹底した対話と説明の姿勢をみれば、はたして強引という言葉があてはまるのかどうかさえ、疑問です。対話と説明が皆無である小泉手法とはまったく対照的です。
百条委員会でいいがかりのような言動をおこす議会と、いったいどちらが強引であるのか。

新鮮な知事が必要だ、という市民の声をテレビで聞きました。
いったい何が新しく、何が旧態依然としたものなのか。

かつて田中知事が誕生したとき、ある集まりでその喜びを表明したら、笑いがおきて驚いたことがあります。冗談だと思われたのです。多くの人は、ひょっとしたら今でも、田中康夫という人をただのタレントだと思っているのかもしれません。

今回の落選は、なんとなく予測していた結果ではあり、昨今強く感じている、市民における論理の不在の表れのひとつとして、ややあきらめとともにうけとりました。成果や結果ではなく、単純すぎる言葉や「新鮮っぽさ」が支持される社会。
このあとの長野がどのようになるのか、見ものです。

このような終わり方は残念ですが、しかし、かつて当選をうれくし思いながらも、作家としての主張と行動がわずかになってしまうことをさびしく思っていたぼくとしては、この6年間の経験をもとにさらに磨きのかかったペンの力による活躍が再開されることに、期待と希望をいだいてもいます。

康夫ちゃん、ほんとうに、ごくろうさまでした。

[政治・国際・社会]
2006.08.07 - 07:52 AM |
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