役と役者と、かつて生きた人と

月曜日のNHKの昼間の番組「スタジオパークからこんにちは」に、新選組の井上源三郎役、小林隆さんが出演してたので、録画しておいたのですが、今日それを見ました。

役者の印象が、いい役や特徴的な役柄に強く影響を受けるということはよくあります。
ただそういうのと違って、役というよりも、役であった人物の人生が、役者の人生に重なるような、これまでの役と役者の関係でみてきたようなものとはちょっと違うものが、『新選組!』の役者さんたちの中には生まれたような気がします。

「スタジオパーク」でニコニコと座っている小林隆さんを見るだけで、「ああ源さんだ……!」とぼくは涙がこぼれてしまいました。これって、冬ソナを見てヨン様にオバサンたちがはまるのと同じことなのかな、と思ったりもしたんですが、何か違う。
ただ小林隆という人が、すてきないい役者だから好きだ、ということではなくて、役者を見るだけで、ドラマ上の役の人生と、役者自身の人生が同時にどんとそこに控えているのを見るような、そんな感じです。
と同時に、必ずしも一致はしないのだけれど、歴史上に生きた本人たちの人生はどうだったのだろうか、という思いもひろがっていきます。そうしたものがすべてない交ぜになって、涙が出てくるのです。

もちろん源さんに対してだけでなく、「いいとも」やスマスマで見る慎吾ちゃんには「局長!」と声をかけたくなりますし、ビールのCMで佐藤浩市を見れば「ああ鴨が楽しそうに笑っている」、ドラマの中で夫婦を演じていた山本太郎とはしのえみの車のCMを見れば「佐之助、おまさと幸せそうだな」などと。堺山南も鈴木砂羽明里も、八嶋観柳斉も、オダギリ斉藤も、藤原総司も、田畑つねも、沢口みつも、伊東四朗源之丞も……ああ、あげればきりがない、もうほんとうにどの登場人物=役者に対してもみな同じような思いを抱きます。

役者に役のイメージを投影しているのではなく、役と役者の人格の、特別な重なり具合を感じるのです。

こんな感覚に一番近いのは、『北の国から』かもしれません。純や蛍の子どもから大人への成長は、俳優吉岡秀隆と中嶋朋子の成長でしたし、彼らをいろいろなドラマや映画で見ても、今でもやはり純や蛍という名前が浮かんでしまいます。
でも、いくら感動して泣いたりしてもそれは「ドラマの中の話」であり、役のイメージは相当強くありますが、当然のことながら、蛍と中嶋朋子は完全に別個の人格として存在しています。
しかし、『新選組!』の人たちは、役と役者の「人格の重なり具合」の様相がまるで違います。
もちろんそれはいい悪いではなく、倉本聰と三谷幸喜の脚本の書き方の違いによるものでしょう。


役者さんたちの、大河以外での番組やインタビューを見たり読んだりするにつけ、彼らの中にはたしかに、役の人物が、入り込んでいるようです。

土方役の山本耕史は、近藤・慎吾にリアルでもほんとに惚れていて、いま、香取慎吾が誰かに殺されたりしたら「ボクを殺した相手を殺しかねない」と慎吾ちゃん自身が語ってます。(SmaSTATION-4 ゲストトーク [tv-asahi.co.jp])
山南敬助役の堺雅人さんは、山南が腹を切った後も大河を見てきたけれどそれは「自分の死後を見ているような不思議な感じがした」と語っていました。
小林隆さんは「スタジオパーク」で「今年いっぱいは新選組の六番組長でいる気持ちだったが、今は、年を越えても、ずっと源さんでいるだろう」というようなことを語っていました。


まだ自分の中でもよく整理できていないのですけれど、「スタジオパーク」なんて、いわば軽い宣伝番組を見ていても涙がこぼれてしまう、これは一体なんなのだろうと思って考えているのですが、何かとても特別なドラマであったことは確かだ、という気がしてきています。

[映画・演劇・テレビ]
2004.12.24 - 02:38 AM |
新品じゃなきゃイヤ、という白石加奈。spam。 | 高機能の使い勝手

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