死刑になりたいための犯罪

少女二人を襲い、殺人未遂容疑で逮捕された高校一年生が、「死刑になりたかった」と語ったそうです。
少年犯罪に限らず、事件の真相というものは、こうした言葉の片鱗だけではほとんど何もわからないとぼくは思っていますが、この事件についての真実はともかく、「死刑になりたいことが人を殺す動機になりうる」、という提示をしたことに、非常に重要性があると思いました。正直、ちょっと驚きました。

「死刑になってもいいから人を殺す」ということはこれまでも聞いたことがあり、死刑を覚悟して罪を犯す人にとっては、死刑が抑止力にならず、その点でもぼくは死刑の存在を疑問視しています。
ただしかし、殺しはしたいが自分は死にたくないという、死刑が抑止力になる人ももちろんいるでしょうから、必ずしもこれだけでは死刑反対の理由にはなりません。

ですが、死刑になりたいから罪を犯すということは、これとはまったく異なり、人を殺すことでなく、死刑になることそのものが目的です。死刑の存在そのものが、犯罪を生んだとも言えるわけです。
今回の場合は幸い未遂に終わりましたので、仮に起訴されても死刑を求刑されることはないでしょう。
が、もし重罪を犯していたとすると、それに対し死刑を求刑したり言い渡したりすることは、容疑者の望んでいること、犯罪の目的の実行そのものを、検察や裁判所がしてあげることになり、それは犯罪を裁くことになるのだろうか、ということがあります。
さらに、もし死刑されるために罪を犯した人を死刑に処することになったら、それは国家が、法で禁止されているはずの自殺の幇助をすることにほかなりません。
したがって、死刑に値すると判断される犯罪に対しても、容疑者の目的を果たさせないために、無期懲役とすることが考えられますが、これは事実上の刑罰軽減になってしまいます。
また、もしそういう判例ができると、今度は、もともとは死刑が目的でない容疑者が、罪を犯してからの言い逃れとして「死刑になりたかった」と主張することが有効だということにもなってしまいます。

つまり、どのようにしても、「死刑になりたい」ということを目的とした犯罪を裁くのは容易ではないと想像できます。

これをどのように解決するべきなのか、もっと考えてみないとよくわかりませんが、死刑の存在の問題、もしくは死刑以外の極刑がないことの問題のように思えています。

[政治・国際・社会]
2004.06.03 - 04:37 PM |
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