『硫黄島からの手紙』

日本の士官にも、このように人間味にあふれ、論理的な思考でものごとをすすめてゆく人がいたのだということにどこか安堵する自分がいます。
ですが、それでもなお、彼らのような人間でさえ、理不尽で無意味な結末に自ら突き進んでいかなければならなかったのはなぜなのか、深く考えさせられます。

それにしても、あの爆撃の嵐。見ていて思わず身体が縮こまり、知らぬうちに歯をくいしばって恐怖に耐えている自分に気づいたほどの、圧倒。
実際に現地にいた兵士たちの思いや感情の何十分の一かでしょうが、それでもそれを映像で疑似体験させてもらいながら、同時期にあのB29で同様な思いをしていたであろう当時の東京をはじめとする空襲を受けたひとびと、そして今なおあの米軍の攻撃を受けている中東のひとびとが抱いているだろう恐怖を想像するに、余りあります。

あるいは、あの海を埋め尽くす大艦隊。
『男たちの星条旗』での見たその映像では、あんなものを見せられたならば、自分なら恐怖をとおりこして諦めと無力感に襲われて、腰砕けになるのではないか、と感じていました。
しかし『硫黄島からの手紙』での二宮和也演じる若い兵士の腰は砕けず、その場にいる者のリアルな「囚われた現実」を表現していてうならされました。国家や戦争という装置によって囚われてしまうあのようなもろさ(あるいは馬鹿馬鹿しい強さ)は、たしかに人が——つまりはぼくもまた——もっているものだろうという説得力を発揮して迫りきて、砲弾や銃弾の嵐とはまた異なる、内からの恐怖を抱かせられます。

『男たちの星条旗』同様、すばらしい映画でした。どちらか一方だけでもおすすめですが、しかし一方を見れば、きっともう一方もどうしても見たくなるでしょう。

[映画・演劇・テレビ]
2006.12.12 - 09:05 AM |
硫黄島と歌舞伎町の距離、60年。 |

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